看護師になったら
世界がちょっとでも平和になるかもしれないって
現在、老年看護学と国際看護学を
「未来の看護師」に教えている笠原順子さん。
そんな彼女の「藤時代」は?
彼女の中高時代を紐解いていきましょう…。
なぜ藤に入学したのですか?
小学5年の時に、親に連れられて。学校見学会に行ったんですよね。その時、御聖堂で細貝先生がパイプオルガンを弾いていて、小学生なりにそれに感動して。
初めてパイプオルガンを間近で?
そうですね。それで、「なんてきれいなんだろう」と思って。ステンドグラスにも感動。「ここなら来てもいいかも」って。
最初に藤を考えたのは保護者ということですね。それはどうしてだったんでしょう?
母は、藤じゃないけど女子校に行っていて、「娘は女子校に入れたい」と思っていたようです。父は札幌生まれの札幌育ちで、札幌の女子校ならば藤がよいと考えていたようです。
藤に入学して、どうでしたか?
そうですね…違和感とか全然なくて、自由な学校だな、と思いましたね。
どんな点に、自由を感じましたか?
もちろん、やってはいけないことはやってはいけないって言われるんですけど。どんな考えを持っていても、否定されるようなことはなかったですね。
具体的に、なにか思い出はありますか?
「高校生クイズに出たい」って言った時に、進路指導の先生は、「あまり好ましくないかな」って。「君たちが、若い間に、報道のもとにさらされることを良しとしません」っていうようなことを。今になってその意味がすごいわかる。やってはいけないことをちゃんと言ってくれる、でも頭ごなしではなく、必ず理由が、納得いくものをくれたり。それが自由だなって思いましたね。
先生との思い出を教えて下さい。
5年生の担任の先生が、新井田先生で。
世界史の。
はい。お家が近かったのもあって、美術に使うくるみを分けてくださったり(笑)
気にかけてくださって(笑)
はい(笑)そうですね。楽しかったなって。いつも、私たちのことを思ってくれてるんだな、この先生はって。個性的な先生が多かったですね。
たとえば?
6年生の時、福永先生っていう生物の先生が担任で、生物の授業の中で高校生の私たちにも、アポトーシスという言葉を教えてくださいました。人間の指は発生の時に、こう、5本ともくっついているんだけど、遺伝子でプログラミングされていて、ここから細胞が自分で抜けていくんだよ(指の間を示しながら)っていう話を、大学で福永先生が勉強なさっていたと。サイエンスの面白さを教えてくれ、人体の不思議を知ることになりました。
受験という枠に囚われない、学術的なお話を。
そうですね。
部活動はなにかやっていましたか?
ずっとテニス部でした。当時は中2からしか入れなくて。
今は、中1の前期中間試験の後に入れます。なぜテニス部に入ろうと?
母がテニス好きだったので、私もテニスをしようと思って。
顧問は、2年が菅原先生で、そのあとは数学の岡本昭二先生も加わりました。岡本先生にはテニスの技をたくさん習いました。めちゃくちゃテニスが上手だった。サーブのカーブのかけ方だとか、コーナーの狙い方とか、いわゆるテクニカルなところを。
物理学科だったからでしょうか。
知らなかったです!物理学的な教え方してましたね、そういえば。でも、すごくスマートなのはわかった。
当時は、高体連に加盟していない時代ですよね。
そうです。それでも岡本先生が道を拓いてくれて、高校生の大会に出られるようにしてくれました。私たち、弱かったけど、出させてもらいました。岡本先生はずっと硬式テニスをされてきて、私たちは軟式テニスでしたが、「ソフトテニスのボールはこんな感じ」って、教えてくれてました。
今は硬式になりました。
そうなんだ。
中高時代、一番頑張ったことはなんですか?
英語がすごく好きで…1年生の時から、ネィティヴの先生が教えてくれるんですよね。Mr. バーカー先生っていう、長く教えていらした男性の先生と、もうひとり女性の先生が、英会話の授業を教えてくださっていて。ネィティヴが話す英語はこんな感じかっていうのがわかって、早くから「海外に出てみたいな」と思っていたんですよ。
藤に入学する前に、英会話は習っていたんですか?
全然。でも入学してからは、英会話が面白くて仕方なくて、高校1年の時に、姉妹都市だったカナダのバンクーバー島へ短期留学する機会をもらいました。3週間のホームステイでしたが、お庭に鹿がくるような大自然のお家にお邪魔して、昼間は現地のサマースクールに通って、馬に乗ったりもしました。帰りにはバンクーバーのブリティッシュコロンビア大学で先住民の博物館も見学したりして、異文化って面白いなぁと体感しました。初めて飛行機に乗ったのもこの時です。
英語学習のコツを教えてください。
コミュニケーションは、心と心でするものなので、想像力かな。単語を覚えたりすることももちろん大事で、ボキャブラリが多い方が自分の考えていることは相手に伝わるんですけど、最後は、相手が何を伝えたいのか察することができる力。
山城先生の後輩とお聞きしていますが、「小山田(山城先生の旧姓)先輩」とはどのような出会いだったんですか?
確か、私と同級生が居残りしていた時に、「まだ残ってるのー?」って声をかけてくださったんですね。それで…そこから進路相談なんかをした気がします。
ちょっとした出会いでそんな深い話に?!
なんででしょうね。どこか気が合ったんでしょうね。私は学年は1つ下なんですが。小山田先輩が「北大に行きたい」っていうことを教えてくださって。私も北大に行きたくて。それで、「どういう勉強をしてるんですか?」とか聞いた気がする。先輩は理系だし、私はちょっと理系だったので、聞いたんですね。先輩は、朝に図書館で勉強してたんです。
朝学習をしていたんですね。在校生がこれを聞いたら、みんな真似しちゃいます。
いいと思う、すごく!7:30から開いてたんですね、図書館が。シスターの司書さんがいてくださって、いつも早くあけてくださってたんですよ。あの朝学習は相当よかったですね。
笠原さんも、真似して取り組んだんですね。
そうなんです。私も6年生の時に。
中高時代は、どんな生徒だったんですか?
なんか、ナンバー2な感じ?指揮者とかが頑張ってたら、「みんなやろっか~」って声かけたり。
重要な人材じゃないですか。
そうですか(笑)?そういうのが好きなんですね。すごく一生懸命やってた記憶はありますけど。
「小山田先輩」からは、活発で元気な生徒という情報をいただいています。
元気でしたね。学校祭で、クラスのみんなで「なにかやろう」って言って、長崎くんちという、龍を追っかけるお祭りがあって、「あれをやろう」と。また、美術部のすごい子がいて。彼女に龍の模型をデザインしてもらって、みんなで発砲スチロールを近くのお店へもらいに行ったりしました。兼八先生が喜んでくださって、「面白い」って。
廊下を練り歩くんですか?
そうです。「危ないから時間を決めなさい」って言われて、1日3回くらいかな。
面白いですね。発起は?
クラスの美術系の子と、音楽が好きな子が。
音楽もついていたんですか?
なんか、叩いてたと思う。衣装も作っちゃって。ミシン上手な子とかいるじゃない?その子が作ってたね。
足踏みミシンで?
足踏みミシンで(笑)。放課後借りて。裁縫が得意な子は寄宿生で、赤と黒の布で、裾の長い法被の衣装を作ってくれました。絵を描くのが好きな子が背中のところに金色で龍を描いて。面白かった。
学校祭が9月開催の時代ですね。夏休みを使って、大掛かりなことができていたんでしょうね。
あ、夏休み学校に来てました。
高3になると、勉強モードでしたか?
さすがに勉強しましたね。
それまでは?
試験前しか勉強はしなかったかも(笑)。私がいた頃は、各科目上位20名貼り出しだったんですけど、全然貼り出されたことがなかったですね。
看護師を目指そうと思ったのは、いつですか?
中学2年の時に、宗教の時間で、マザーテレサの…当時「知ってるつもり ?!」っていう番組があって。
Sr. コンズィリアが、マザーテレサの回をみせてくださったんです。マザーテレサの生涯を紹介する内容で、マザーは裕福な家柄で育ったとか、今ではインドで死を待つ人の家を運営してるっていうテレビ番組でした。それで、看護師になったら世界がちょっとでも平和になるかもしれないって思ったんです。超単純に。
では、それを観ながら、ふつふつと「看護師」と。
きっと、色々なきっかけはあったと思うんですね。父が網膜剥離で入院したりだとか。多分決まったのは、マザーのように生きて、それで看護師がいいかなって。
今までインタビューした方々みなさん、ピアニストも、医師も、世界を平和にしたいって、そういう可能性を模索してるんですよね。
藤は世界の平和を教える学校だったと思う(笑)
「ゆりかごを揺らす手は世界を動かす」という言葉をキリスト教倫理の時間でもよく聞かされていました。刷り込みかもしれませんが、今となってもその言葉は好きです。
私が中学の時、湾岸戦争がおこったんですね。はじめてミサイルのシーンをオンタイムでTVで見て。あの時、シスターたちが御聖堂に集まって祈っていたんですよ。
お祈りしているという情報はどうやって知ったんですか?
御聖堂で見たんですよ。出入り自由だったのでたまに行ってたんです。そこで私、シスターに対して「何で祈ってるんですか」って聞いたんです。
すごい質問を。
そう(笑)。それで返ってきた答えが、「今は祈ることで力を送っています」って。不思議でしょうがなくて。「祈りで何が解決するんですか」って。「何もしないことよりは、祈りは力を持っています」って。それで感動しましたよね。でも、当時は本当にその意味が分からずなおさら、手に職をつけて看護師になろうって。
そこで本当に同調したら、シスターの道でしたね。
尼僧になってましたよね(笑)
今年、看護師志望多いですよ。
そうですか、うれしい~。本当に好きな仕事です。楽しくてやりがいのある仕事です。
当時、北大に医療技術短期大学部があったんですね。
そうなんです。今は4大に移行したんです。ちょうど、私が高3の時に、札幌医大に次年度から4年制の看護学科ができると聞きました。看護学の歴史ってすごく浅いんです。
そうなんですね。今は4年制が当たり前になっていますが。当時、北大の医療技術短期大学部の看護学科は狭き門だったのでは?
そうですね。入るのは結構難しかったですね。定員80名。私は引っかかった口です。私が受けた年は、札医と北大の両方に受かった学生は、札医に流れたようです。札医が4年制になっていたので。おかげで私は追加合格しました。でも、北大に行って、その先の人生が開けていったんです。塞翁が馬ってやつですね(笑)。
身近に、医療関係者はいたんですか?
身近にはいないです。あ、一人、父のお友達で助産師の方がいて、その方が青年海外協力隊で、マラウィだったかな…に行ってて。よく会ってましたけどね。
遊びにいらしてたんですね。
私の父は公務員だったのですが畑が好きで、九州から北海道に農業をするために移住してきたご家族と懇意にしていました。その頃有機農業がはやり出したときだったんですよ。そこは厚田郡厚田村古潭という村だったのですが、仲間たちが集まり始めて。移住してきた方も、青年海外協力隊農業でインドに行っていたような。ワールドワイドではあったんですよ、育った環境が。そこに、マラウイに行っていた助産師さんも来る、彼女は札幌医大の助産師さんをやってらしたんですよね。週末に畑へ遊びに行くと、いろんな人が集まって。JICAから研修生も受け入れたりしていました。そこで青年海外協力隊っていうのがあるって小学生のころから知ってて。
お父様の知り合いから、笠原さんの進路が拓けたのですね。
そうですね。父は、グローバルに育てたかったんだと思う。だから多分藤も紹介したんじゃないかな。英語教育が充実してるという評判がずっとあって、実際にそうなので。
農業を介して様々な人々と交流する中で、「これからの時代はグローバルだ」と。
そうですね。楽しかったですよね、色んな国の人と出会うのは。畑で土を触ることも好きでした。
笠原さんも、その交流の中で、無意識に海外へ渡る意欲が。
海外に出て働きたいとずっと思ってましたね。このHPの企画でJICAに就職した回の子がいたじゃないですか。
二木緑葉さんですね。
「ああ、いいな~」って思って。あの回を読んで、こういう子育つよ、藤って。
それでは、藤を考えている保護者に対してメッセージをお願いします。
英語を話す人口は20億人。その20億人とコミュニケートできることで、伝わるものとか、発信されたものをキャッチできる量がかわる。藤の英語教育に私は一生感謝です。世界に通用する英語教育をしてもらったと思います。多彩にプログラムを選べたし、先生たちの視野が広かったです。
撮影場所:北海道大学(古河記念講堂・中央ローン)
インタビュアー・ライター/新山 晃子
カメラ/中村 祐弘
編集/松永 大輔