単純なので、看護師って白衣の天使というイメージしかなかった
宗教の時間をきっかけに、
将来の夢をみつけた笠原さん。
北大に入学し、看護師を目指します。
大学での学びが、どのように彼女の世界を広げていったのでしょうか。
北大入学後のことを教えてください。
最初に看護学科に入った時は、看護師として、日本で経験を積んで、いつか世界へ出たいなと思っていました。ただ看護師になれればいいと思ってました。それが、北大で出会った先生がとても素敵で、看護学って面白いって思うようになりました。松村悠子先生っていうんですけど、その先生から看護学の面白さを教わって、いずれ看護学の教育ができる人になってもいいかなと思って。多大な影響を受けて大学院まで進み、今の私があるという感じです(笑)。
最初は臨床で力をつけたい、というスタートだったけど、恩師との出会いによってまた違う展望が。
そうですね。看護学という学問があるんだということに気づかせてくれた。
どんな話が印象に残っていますか?
悠子先生は脳外科での臨床経験が長くて、そこでの話、看護が持っている力をいつも熱く語っていました。看護師は、患者さんが日常の生活に戻っていく過程を支えるプロなのだと。看護師はオペ直後から患者さんのリハビリを始めます。麻酔が切れたあとの意識はどうか、ムセなく水が飲めるか、手や足はしっかり動くかなど、それはリハビリテーションということができます。今でこそ、身体機能の維持には PT といって理学療法士がベッドサイドに来てくれますが、PT はいつもベッドサイドにはいません。看護師は患者さんの一番近くで常に様子を観察しながら、生活行動を取り戻す支援をします。まさに、re-habilitation(再び生きること)の支援です。
脳梗塞の後遺症で、利き手に麻痺が起こってしまった方がいたとします。その方がこれまで出来ていたこと、お箸をどう持つかとか、お手洗いに行くときどうやって移動するんだったかなど、細かな生活行動を、患者さんと共に取り戻していくのが看護だと。栄養や睡眠や排泄などのADL(Activities of Daily Living:日常生活動作)を整えることが大事。医師の指示に従って注射を打つだけが看護師の仕事ではないことを教えてくれました。
処置だけじゃなくて、そこに生活するという項目を追加してくれる存在なんですね。「生かした」という医者と、「これから生きていく」という看護師という役割分担で。
そうですね。一度健康レベルが下がった方が「健康」に戻っていく過程、一命を取り留めてまたもとの生活に戻っていく過程を支えるのが看護学の醍醐味であるということを授業ではいつも話されていました。脳は人間としてのさまざまな機能を司る臓器ですが、看護の力で患者さんのその後の生活の質(Quality of Life)が変わってゆく。それを臨床で目の当たりにしていた悠子先生が語る看護の持つ力は、それまでの私の看護師像にはないものだったし、ワクワクしました。単純なので、看護師って白衣の天使というイメージしかなかったですから(笑)。
そういうことを次の看護師に伝えていくというのも、必要だと思ったわけですね。それこそ、4年制の看護学科ができた頃ですし。ただ、経歴を見ると、北大卒業後はまずは働いていますよね。
北大の口腔外科に。
なぜ口腔外科だったんですか?
食べることと、外科が好きだったんですよね(笑)。短大の実習3年目って、いろんな科の実習に行くんですね、急性期や慢性期、母性、小児、精神科など。その中で外科、シンプルに、切って貼って、元気でね、と退院してゆく患者さんを送り出すことが好きで。私が急性期の実習で受け持った患者さんと、別の実習中に外来でお会いしたんですよ、偶然にも。お元気そうで何よりです!と手を取り合って喜んだことを覚えています。嬉しかった。たとえば糖尿病とか高血圧とか、慢性疾患をずっと抱えて生活してゆく方を看ることは私の性格に合わないなと思ったのと、あとは文学部に編入がしたくて、残業が少ないと言われていた口腔外科を選びました(笑)
松村先生の話を聞いて、編入を考えていたわけですね。哲学や倫理の学習を考えたきっかけは?
私が短大2年の時に、臓器移植法が日本で成立したんです。脳死が人の死であるというのは一体どういうことか、サイエンスとしては脳が機能停止をして元には戻らないという勉強はしたはずなんだけど、それは社会的に本当にそうなのか、自分が看護師になったときに脳死の人から臓器を取り出せるのか、ということを深く学びたかったんですよね。
生命倫理ですね。ちょうどその頃、柳田邦男さんの…。
『犠牲(サクリファイス)わが息子・脳死の 11 日』とか、話題でしたよね。
短大の時の一般教養で、文学部から哲学科の先生が派遣されていたんですよ。題材に『高瀬舟』を使ったりして。
森鷗外ですね。
そうそうそう。それを使って、倫理的な問題ってこういうことが起こりうるという事例を多く教えてくれました。当時クローンとか、ES細胞が発見され始めていて、脳死の問題でも、自律とは何かとか、人格とは何かとか、自分にとってトピックだったんですよね。
北大、やはり総合大学という利がありますね。
そうですね。北大は本当に university で、多様な先生と学生がいて面白かったです。英文学の授業を受けたり、文化人類学の授業を受けたり、歴史学の授業を受けたり。文化人類学の先生には今でも会いにゆきます。私、本当は医療短大に落ちて他の大学で看護に進もうと思っていたんです。でも3月の終わりに追加合格して、北大に来てみたらどんどん世界が広がって。短大の卒論では、分析化学が専門だった化学担当の三浦敏明教授にお願いして、液体クロマトグラフィーを使って、石鹸清拭の拭き取り回数について研究する機会をもらいました。分析機器を何度か壊したりしても、三浦先生は私たちを叱ったりせず、丁寧に何度でも使い方を説明してくれました。Macの使い方も教わって卒業論文を書くことができました。今思うと贅沢な恵まれた環境でした。本当に大学って自分を見つける場所なんだなと思います。
編入試験はいつ挑戦したんですか?
短大の時もチャレンジしましたが落ちました。狭き門でした。10 人かな。就職して1年目も受けましたが落ちました。3回目の受験で合格。口腔外科をやめて、1年浪人して勉強しました。二足のわらじはやっぱり厳しいなと感じて。
編入に向けて、本気モードになったわけですね。
そうです。でも看護師のアルバイトはしてました。看護師のよいところは経済的にも自立できるところです。自由であるにはお金も大事です(笑)
では、内科の外来というのは、バイトなんですね。
バリウム検査の前処置をひたすらしてました(笑)。看護師は何をやっても勉強になるだろうと思って。
そして北大の文学部に入ったわけですね。文学部での2年間はどうでしたか?
面白かった~。
卒論のテーマは?
「ケア倫理学の可能性」っていう…ケアとは何かについて研究しました。
京大におられた加藤尚武先生が生命倫理学を日本に広められたのですが、看護師はまさに医療現場で生きている人間と向き合うので、生命倫理学という学問領域には興味が湧きました。生命倫理学を学んでいく中で、ケアの倫理学という立場を知った訳です。私にとっては脳死と臓器移植がずっとトピックだったので、編入直後は脳死についての研究をしていましたが、この題材は倫理学をちょっと学んだからといって正解が出るテーマではないと、勉強し始めてやっと分かりました。指導教授の坂井昭宏先生は、デカルト研究から倫理学を研究している方でした。「古臭い哲学史ばっかりやってても現代では何も役に立たん、それが現実社会にどう活かせるかを研究者が考えずして誰が考えるのか」と、生命倫理学に着眼されていました。坂井先生からケアの倫理学という論文を紹介され、ケアとは何かを考えるきっかけをもらいました。研究室では、じゃあケアって善いことなのか、小さな親切大きなお世話というのがしばしばあるけれども、ケアに価値はあるのかということを、メタ倫理学(物事の善悪とは何かを議論する立場)の立場から考えることになりました。先輩にお願いして「ケアゼミ」という勉強会を開いてもらい、フランス哲学やドイツ哲学の見地からも様々な論文を読むチャンスをもらって、とにかくダイアローグしました。結局、ケアの価値は中立であり、ケアそのものは善でも悪でもないという結論が導かれました。私はとにかく看護が好きで、ケアに価値がないなんてありえない!と思ってたんですけど、まあそこで私の仮説は棄却された訳です(笑)
自分自身の既成概念が解体したのですね。
仮説は却下みたいな感じで文学部は終わりました(笑)
でも、論理的に物事を考えるとはどういうことかについて、哲学科で浴びるように文献を読んで、ゼミで徹底的に話し合うことによって、知ることが出来ました。自分を知るという感じです。
文学部の中に医療従事者がひとりいて、周囲にもよい刺激になったんじゃないですか?
変なのがいる、とお互いに思っていたと思います。看護学科でキャーキャーやっていた私。片や哲学科では、それこそ修道の途上にあるかのように学問を修めている先輩達。入学当時、そこ(文学部6階)に流れている空気は私からすると異様でしたが、卒業する時には馴染んでいたと思います。思えば藤でシスターに触れていましたね。
学位取得後は、どのような進路を進まれたんですか?
一度、臨床に戻ろうと思ったんですね。それで京都のNTT西日本京都病院へ。
なぜ京都だったんですか?
卒論の副査の先生が、京大出身の蔵田伸雄先生で、京大の医学部の中に医療倫理を専門にやる講座ができるよと教えてくれて。調べたら、スク-ルオブパブリックヘルスっていう公衆衛生大学院だったんです。そこは指導教授たちも医師だったので「君いいんじゃない?」って教えてくれて。でも、それを知った時にはその年の院試が終わってたので受けられませんでした。それでもとにかく京都に行こうと思いました。現場が好きなんですね。それで京都の病院で働きながら京大の医療倫理学のゼミに入れてもらって、先生やゼミ生と一緒に臨床における生命倫理学の勉強を始めました。
その先生の推薦で?縁は大事ですね。
本当に縁って大事です。
それで、拠点が京都に。病院はバイトですか?
これは常勤でしたね。
夜勤とかもありながら?
3交替しながら、空いてる時間に勉強してました。
京大は、モグリで。院生でも科目等履修生でもなく。
単位に関係するゼミではなかったですが、教授にお願いして一緒に勉強させてもらいました。北大も自由な大学でしたが、京大も本当に自由でした。
京大の新しい講座では、どのような学びを?
医療の中で医療倫理学が勉強できるって聞いて飛び込んじゃったんだけど、入った後はすごく大変でした。統計学とか疫学とか、他の科目の単位を取るのが本当に大変でした。公衆衛生大学院がどういうところかよく分からずに入学してしまって、あれ?私、修了できるのかな、と不安になりました。公衆衛生大学院というのは、社会で起きている医療に関するあらゆる事象を、客観的に分析して、そこから分かったことを社会に発信するトレーニングをする場所のようでした。医療倫理学だけやっていれば良いわけではなかったんです。
でも頑張って通ったんですね。
医療倫理学はすごく面白かった。あと、院生仲間がすごくバラエティーに富んでいて面白かった。医療者もいましたが、バックグラウンドが看護だけじゃないので、医療経済学をやってましたとか、琵琶湖で水質調査して毛髪にたまる鉱物を調査してましたとか、とにかく公衆衛生に関わるいろんな人たちが集まってたんですよ。ふたを開けてみたらね。それがすっごく楽しかった。
苦手な統計学を夜勤をこなしながら取り組んで。
仲間に本当に助けられました。統計のレポートは本当にわからなすぎて同級生にいつもヘルプ求めてました(笑)。入学してしばらくはアルバイトができる余裕がなかったのですが、しばらくたって働けそうなペースが掴めてきたので、3か月くらいして宇治黄檗病院の認知症専門病棟で夜勤専従のバイトを始めました。
この時、専門学校で講師もしていますよね。
知人に頼まれてバイトしたんです。
生命倫理を教えたんですか?
医療クラークさんを目指す人向けに、看護師の仕事って何なのか、クラークにはどんなことが求められているのか、ということを教えてましたね。
ここは、医療事務になる人が入学する専門学校なんですね。
はい。
いつも忙しいですね。
いつも働いてましたよ。
忙しいのが性に合ってるんですかね。
いや、忙しいのは好きじゃないです。でもこの時は、今もだけど、本当にやりたいことが明確で、突っ走ってましたね、いつも。それに寝られるときはよく寝てました。
修士論文のテーマは?
「高齢者医療の現場で働くスタッフの虐待に関する意識調査」です。私が修士課程に入る前後に、高齢者虐待防止法(高齢者虐待の防止、高齢者の養護者に対する支援等に関する法律)に関する議論が盛んになりました。2006 年に成立したんですけど。時勢の中で高齢者虐待がトピックな時期だったんですね。それで、医療現場のスタッフに、高齢者虐待を起こさないためにはどういうことが必要と考えるか、ケア者の職業倫理とは何かを問うインタビュー調査をしました。
それが現在の老年看護学につながっているんですか?
そうですね。バイトから興味が広がっていきました。それと、修士課程に寄付講座として入っていた京大東南アジア研究所の松林公蔵教授と出会ったことも老年看護学につながっていると思います。それまで、医療は病院で行うと思っていた私の常識を、松林先生はいい意味で覆してくれたのです。老年者が暮らすフィールドに医療者が出てゆき、そこで彼らがどのような場所で誰と暮らし、何を食べてどんな生活しているのかをまず知ることから医療は始まると教えてくれました。生活の中に健康があると。フィールド医学との出会いでした。松林先生はアジアの各地に出かけてゆき、ご自分で見てきたものを老年医学の視点から解釈して教えてくれました。海外に出て看護の枠で何かしたいと思っていた私は、医療倫理学の講座に席を置きながら、長期の休みの時には松林先生のところで海外調査に行かせてもらったりもしました。京大で、学問、特にフィールドサイエンスが発展するのは、学びたい人に大らかに門戸を開いてくれ、それを信じて学生もチャレンジングな人が集まってくるところにあると思います。ノーベル賞が出る大学ってこういうところなんだと感じました。
修士課程のあと、博士課程に進まれたんですか?
修士課程の終わりの頃に青年海外協力隊のセネガル派遣が決まり、博士課程は 1年休学しました。実は博士課程に進むかどうか迷ってたんですが、松林先生が「籍を置いて行ってはどうですか」と進学を進めてくれたんです。「セネガルから帰ってきて身分フリーというのは安定しないでしょうから、ひとまず籍を置いて」と。博士って、ばりばりの医学系の雑誌に論文を出さないと学位がとれないと聞いていたし、間近で苦労している先輩達を見ていたので、私は進学を迷っていました。
博士論文は、英語ですよね?
もちろん!
修士は…?
日本語でした。でも多くの同級生が修士論文を国際誌に投稿してました(笑)。私は落ちこぼれです。
では、博士課程に進まないかもしれないけど、身分をしっかりしておいたほうが日本の場合はいいという先生のアドバイスで、籍を置いたわけですね。
そうです。本当にいい教授に出会いました。研究者の卵として院生を大切に育ててくれました。研究室の仲間も本当に温かくて、今でもちょくちょく研究相談してます。後輩にも助けられてて…ダメ先輩です。
在校生に対してメッセージをお願いします。
好きな科目を一生懸命頑張ってください。苦手なことは、苦手なままでいいです。楽しいって思えたら、勉強(強いられてる)って思わなくなるから。
すべての勉強がいやだ、という生徒に対しては?
なにをしている自分が一番好きか。寝ている自分でもいいし、自分の何か好きなことに気づいてあげて。それをやり通した先に、なにか見えてくる。寝るのが好きで、ひたすら寝て、やりつくしたら、なにかあると思うんですね。
寝るのが好きでも、寝る自分が好きかはわからないですしね。
なんで寝ちゃうんだろうって責めちゃうかもしれないよね(笑)。でも、それしかできないとしても、それは責めなくていいのです、しょうがない、そういう自分を受け止めて、とことんやってみたらいいかなって。人生は 100 年の時代になったから。急がなくていいって言ってあげたい。
撮影場所:北海道大学(古河記念講堂・中央ローン)
インタビュアー・ライター/新山 晃子
カメラ/中村 祐弘
編集/松永 大輔