いつどこに誰が生まれても、いつもみんながハッピーに
看護学との出会い、文学部への編入、京大大学院へ入学…。
やりたいことに向かって「突っ走って」きた笠原さん。
現在は、大学で学生に対して看護学を教えています。
彼女の将来の展望とは?
セネガル行きはいつ応募していたんですか?
M2の時ですね。終わったら行こうと思っていて。
希望は出すんですか?アジア方面がいいとか…。
アジアに行きたくて。
でも、アフリカですよね。
そうなんです。採用通知がきてもセネガルがどこかわかんなくて、しばらくアジアの地図をみて、「セネガルどこ?」って探してました。今は協力隊員って案件ごとにアプライするので国がはっきりわかってるんだけど、私の応募した時は、大きなエリアの希望は出せたけど、最終的なマッチングはJICAがやってました。博士の指導教授は東南アジア研究所が所属だし、私もアジアの高齢者のことが知りたいと思ってアジアで希望を出してました。
では、笠原さんはパイプもあるな、と。
そう。東南アジアにいきたいなと。でも結局セネガルになって。アフリカ!って驚きました。今になって思うのは、多分、頑丈な人がアフリカに派遣されたんだなと。アフリカは遠いし生活環境も厳しいので、とにかく元気な人が派遣されたのだと。同期のアフリカ派遣仲間もみんな元気でした。
経歴からいって、タフそうですもんね。
どうみてもタフですね!協力隊の研修所に入った時、同期で看護師隊員が結構いました。「どうしてもアフリカに行きたい!」って子もいたけど、彼女は徐脈っていって平常時の脈拍数が少ない。それでアフリカには行けなくて、中米に派遣されてました。セネガルに集まった人をみると、私も含めて、この人たち頑丈なんだろうなって。
日本にいると、アフリカと聞くと一瞬躊躇しそうですが、ご両親の反応はいかがでしかた?
驚いていました。でも父は在任中にセネガルに来てくれました。
お父様は、農業的見地からも興味があったのかもしれないですね。
そうですね。
娘がいることを口実に。
そうそう(笑)見に来てたよね。ついでにモロッコにも 1 人で行ってました。
派遣の機関はどれくらいですか?
1年で帰ってきました。2年派遣の予定でしたが、1年でやっていたプロジェクトが軌道に乗ったので、博士課程に戻りました。あと、もっとお金を動かせる立場になってから戻りたいと思いました。
セネガルの思い出を教えてください。
楽しかったことが多いかな。
セネガルを知らない人に紹介するとしたら?
ご飯がおいしい!西アフリカの中で、ニジェールとかギニアとか各国あるなかで、断トツおいしい!…と聞いてます(笑)。お米を食べるんだけれど、パームオイルで炊き込んだパエリアみたいな感じです。ウオロフ語で、チェブジェンという魚のパエリアが一番メジャーだと思います。もちろんバゲットとかフランス文化も残ってて。ダカールに行けば、ケーキやアイスクリームもありました。美容室も。でも、協力隊員の大多数は、田舎の村に暮らします。電気や水もすぐ止まったり、井戸しかないみたいなところに住む子もいます。そこが「ザ・フィールド」という感じで気に入ってました。そしてアフリカにおける社会階層のピラミッドを見ることができたかな。日本にもあると思いますが。
首都と地方の格差が。
それがすごく…顕著でした。
プロジェクトはどういう内容だったんですか?
現地のNGO「UPER」の要請で、マラリアとHIVの予防教室を小さな村で開くことがメインテーマでした。特に女性たちが学校に行かれないので、女性たちをターゲットにして、紙芝居を使ってその教育をするという。私はファシリテータ。ヘルスボランティアの人たちを育てて、NGOがその予防教室をマネジメントしていくみたいな形にしていました。隊員は黒子に徹します。いずれ帰国しますから。持続可能性って、その地域やその国の力で回していけることだと考えてました。
指導する人を指導する、という内容なんですね。
そうです。トレーナーズトレーニングをしていた感じですかね。
HIVの感染経路を知らなかったり、蚊が媒介していると思っている人もいるので。感染経路やコンドームの使い方などを教室で扱ってました。
ただ、一夫多妻制の国、イスラム教徒の多い国。こちらと相手の立場が全然違うので、文化を考慮しないと私たちの伝えることは実践にはつながらない。本当は男性と女性両方にお伝えしたいんだけど、性的な話はどうしても性別で分けての指導になるんですよね。そこは歯がゆかったんですけど、女性が男性に対してセクシャルな話をするのはよろしくないので、それは男性隊員に頼んだり、色んな工夫をして。
セネガルにいって、どんな成長がありましたか?
家族を大事にしようと思いました。セネガルでは出生率5.0くらいありました。それで大家族で暮らしてます。第1夫人、第2夫人、第3夫人、第4夫人といて、それぞれでファミリーを持っていて、一つ屋根の下にたくさんの人が住んでるんですよ。だいたい3、4世帯、それに兄弟の家も同じ敷地にあったりして、混沌としてました。でもその中で、人が種として命をつないでいて。DNAをつないでいくってこういうことなんだな、人として自然だなと感じてました。最初はうるさくてめんどくさいなって思ってましたけど、関係性がわかんなくても、一緒に暮らしてるってだけでいいんだよなって思った(笑)。
核家族とは違ったかたちを経験したことで。
「家族とは?」を教わったように思います。
たくさんの人のなかで、次の世代が育っていく。互助の関係もあり。
小さい子がおじいちゃんおばあちゃんをみて、老いを知る…人はこうやって枯れていくんだっていう。わざわざ教育として教えなくても、ありのままでわかるっていいなと思いましたね。
アフリカで藤のことは思い出しましたか?
ダカールでは意外にもシスターをけっこう見かけたので、シスターはこういうところにもいるんだなと思いました。シスターをみるとシンパシー感じちゃって話しかけちゃう。今でも(笑)。おひとり、ダカールにも日本人のシスターがいたんです。孤児院で働いてらして。ダカールには協力隊員用にドミトリーがあったんですが、そこで出るペットボトルの空とか古着とか、そのシスターに寄付してました。
セネガルから戻ったあとは?
博士課程に戻りました。文科省の学振(日本学術振興会特別研究員)っていう制度があるんです。採択率3割くらいの。博士の2年の時にこれに採用されて、研究費と生活費をもらいながら研究をしてました。
DC2が博士課程2年目ということですか?
そうです。DC2からPD(post doctor)まで、公費で研究させてもらいました。
ではこの時期は、国費で研究を継続していたんですね。
博士満期退学しても、しばらく研究員として京大東南アジア研究所に籍を置いていました。
引き続き老年看護学を?
はい。老年学という枠の中で、看護学に何ができるのかなと。高齢者総合機能評価(CGA: Comprehensive geriatric assessment)という手法を使って、高齢者の健康状態を把握して、その上でどうやって健康寿命を延ばすかっていうことを考えていました。今もそれが研究テーマです。平和なくして健康はないのですが、ネガティヴなことよりポジティヴなことに光を当てようと。
理系はそうですよね。
それで、元気に地域で暮らす高齢者はどうして元気なのかを調べていました。
東南アジア研究所だったので、タイとか韓国の高齢者を調べたり、日本だと高知県が早くから高齢化率が高くなった県だったので、そこで毎年フィールドワークをさせてもらって。
国費をもらうことによって海外も含めて実地調査ができたわけですね。
そうなんです。教授をはじめ、研究室のメンバーがそれぞれ研究費をもっていました。
海外の場合、どうやって元気な高齢者がいるって知るんですか?
京大の東南アジア研究所って東南アジアの研究者が集まるんですよ。海外のいろんな大学とも提携しています。アウン・サン・スー・チーさんも東南研にいたそうです。タイのコンケン大学にいったり、中国の雲南大学に行ったり。ブータンの保健省と研究をしている先輩もいます。現地ではそこそこで小学校やヘルスセンターなどの場所を借りて、元気な高齢者来てくださいってアナウンスをして高齢者検診をします。来られない方は、地元の方に伺って往診をする。フィールドワークです。
学振の研究員のあとはどうなったんですか?
期限がきれた後は、横浜に来ました。
そのあと、慶應義塾大学の看護医療学部で非常勤で助手をします。
どうして慶應義塾へ?
これも縁なんですけど、北大の医療短大時代の友達に、たまたま東大の研究会で再会して、「慶應で老年看護学のバイト募集してるんだけど、どうかな」って。
ちょうどわたしの専門だったので、ぴったりの仕事でした。特養での実習指導だったのですが、教育って面白いなと感じました。学生もよく質問をしてくれて熱心でやりがいもありました。同じころ、上智大学の看護学科でも非常勤の実習指導助手をしました。私、博士の時に、京大から長崎大学の熱帯研究所っていうところに3ヶ月間の熱帯医学の研修を受けにいったんです。そこで出会った先生が、上智大学の国際看護学の徳永瑞子教授でした。徳永先生は助産師ですが、中央アフリカでHIVエイズにかかった女性や子供たちを支援するNGO「アフリカ友の会」をご自分で作っていて、積極的に活動されていました。
ある日突然徳永先生からお電話を頂いて、横浜に住んでいることをお話ししたら、「上智で人が足りないからちょっと手伝って」と老年看護学の石川りみ子教授を紹介されて。
笠原さん、みなさんに頼られますね。
この時、プラプラしてたからじゃないですか(笑)
どんな事を担当したんですか?
学生の病院実習の指導をするって感じです。看護学ってこんなところが面白いよみたいなことを助手時代にやっていて。
専門学校の時は医療事務さん向けでしたが、ここではじめて看護師のたまごのみなさんに教えるという経験をしたんですね。
そうですね。いざやってみて、やっぱり楽しかったですね。面白かった。学生がとらえる看護ってすごいフレッシュなんですよ。私はもう免許取って 10 年は経っていたから、大分錆びてきてましたよね、感覚が。これフツ―と思うことも、学生はすごく感動するわけですよね。「そういう感性だったんだ」みたいな。
教えることは、向いてると思いましたか?
向いてるかはわからないけど、学生と一緒に看護学を再発見することは、面白かった!
どんな再発見がありましたか?
そうですねぇ…。とにかく一生懸命っていいな、って思いました。臨床で患者さんを受け持つと、1対10みたいになって、一人一人への濃さが違うわけです。でも学生は1対1で患者さんと向き合える。こんなに丁寧に一生懸命に1人を思ってリサーチしたり、勉強できるって、きれいだな~って。美しいな~って。
慶應と上智の非常勤のあとは?
関東学院大学の老年看護学で常勤の助手になりました。その後、湘南医療大学で助教になりました。
現在、どんなことを教えているんですか?
老年看護学では、高齢者の特性とは何か、その方のQOL(Quality of life: 生活の質 ) を維持したり高めたりするためにどんなケアがよいのかを、学生と一緒に実習フィールドで考えてます。教えるというよりは、患者さんや学生や現場のナースに教えられてますかね。あとは国際看護学といって、看護の対象である人間を、言語や宗教など、文化を超えて看るというのはどういうことかについて、セネガルで考えたことを中心に伝えてます。セネガルではイスラム教徒とキリスト教徒がうまく共生しているように見えました。それはお互いがお互いに対して、ちょっとした想像力を働かせればできることなんだと。想像力です。英語でのコミュニケーションの基本でも言ったことですが、平和構築の一歩も、相手は同じ人間であるという想像力にあると思います。ケアは価値中立でしたが、平和構築につながると思ってます(笑)
現在お住まいの横浜は、幕末以来国際的なイメージがあります。
神奈川県には厚木や横須賀などに米軍基地があるので、電車の中などで外国人を目にすることが多くて、横浜市内には中華街もあって、華僑も観光客も多くいます。国際看護の対象は、自分が海外に行って出会う外国人だけでなく、日本にいる外国人ももちろんそうだよねと。2020 年の東京オリンピックの時にみんなは看護師になっている。もし英語が不得意でも、困っている外国人をみかけたら、どうしたの?と日本語で話しかける勇気をもってねと。必ず伝わるよと。世界の人類…看護の対象は人間なんだから、信条とか国家とか関係なく命を救うことが使命だよねっていうところですかね。そして、日本に住んで日本語を話す人でも、一人一人はみんな違う文化の家庭環境で育ってる。だから日本人だから、外国人だからということではなくて、個別性に沿った看護をするという基本は、どこへ行っても誰に対しても同じことなんだと。
日本は世界に先駆けて高齢社会に突入していますが、何が足りなくて、こういう風になったらいいのに、ということを教えてください。
元気な高齢者もたくさんいるわけですよ。2025 年問題と言われたりもしますが、元気に暮らしていて、お年寄り同士で助け合っている人もいる。要介護認定を受けている人は高齢者の中でも2割くらいだと思います。健康寿命を壮年期から、あるいは子どもの時から意識していたら、元気に長生きできる人が増えるから、長生きが面白くなるんじゃないかと思うんですよね。そんな社会の風潮になるといいなと思います。
それと、高齢者への医療はもう少し引き算をしてもいいのかなと思うことがあります。とにかく命を救うために医療器材も人的資材も最大に使って、未来世代は大丈夫なのかなと。もちろん長生きされてきた方に対して、何が最善なのかっていうのはそれぞれ考えなきゃいけないと思うんだけど。人は、一人で生まれてくる力があって、最期の時も、一人で亡くなっていく力も持っている。その力を医療が削がないように。私はエンドオブライフケアといって、看取りのことも学生たちに伝えてます。よい最期とは何かというのは定義が難しいけれど、ヒトが自然に枯れていく姿を、苦痛少なく看取れる看護師を育てたいと思っているんですよね。
とにかく延命の時代が、人生の質の時代へと、変わってきているのですね。
そうですね。現代においても「ただ生きるのではなくよく生きる」というソクラテスの言葉が効いています。よく生きた先によい死がある。最期に看護には何ができるのかも問われています。
医療は救命しなきゃいけないんで、患者さんに課すことも多いんですね。「あれしちゃだめ」「これしちゃだめ」って。命を救うためには確かに管理も必要なんですけど、そこに自分が与することは胸が痛いんです。だからハコ物の病院が苦手で。糖尿病を患っているかもしれないけど、ちょっとくらいおまんじゅう食べてもいいじゃんって。
話し合った上で、医療的には後退だけど、ライフとしては前向きな選択ができることが増えるといいかもしれませんね。
今後の展望を教えてください。
具体策はすごい迷っているのでわからないんですけど…根幹には、看護の力で世界を平和にするってことがあります。そこはずっとぶれません。日本でも孤独死される方がいたり、自死を選ぶ方がいたり、虐待で亡くなる子供のニュースも後を絶ちません。戦争がないということだけが平和であるとは言い切れないと思います。今の私は日本で後身を育てることを選んでいますが、またアフリカに行きたいという思いもあります。いつどこに誰が生まれても、いつもみんながハッピーになれるような医療のあり方を考えていたいなと思いますね。
一生この仕事をして、世界の平和に貢献できる仕事をしたいなと思います。
藤を考えている子どもたちに対してメッセージをお願いします。
藤に入ってみて、指定校推薦先の大学名を聞いたりすると、関東や関西の名だたる大学が出てきます。札幌、北海道という中で生きていた自分の世界が、まず日本に広がる。そして今度、東京に出てみたら、東京から世界に広がっていく。自分がどこに身を置くかでものの見方は絶対に変わってくる。そういう意味で、藤にいるっていうのは、広い世界に通じる門が一個開く感じです。そこがおすすめ。
それと、6年間受験がないというなかで伸び伸び育ちました。人と競争しなくていい、藤にいると。本当に歴代の女子たちが言っているように、あなたはそのままでいいのです、という雰囲気がとても楽だった。あとはお友達がいいです。今でも連絡取っている同級生もいるし、何年も連絡を取っていなかった友達とも、昨日会ったかのようにすぐに学生時代に戻れます。去年の夏に北大で学会があったんだけど、近くに住む同級生と、20 年ぶりくらいに再会。彼女は自転車で北大にきてくれて、わたしたち、ついこの間高校を出た感じだよね、と話してました。そういう絆は6年かけてできているのかな。
撮影場所:北海道大学(古河記念講堂・中央ローン)
インタビュアー・ライター/新山 晃子
カメラ/中村 祐弘
編集/松永 大輔