進路について OGの活躍
進路について OGの活躍
元宝塚歌劇団 安達彩子さん 第1話トップ
第1話

だから私、探していたんだと思うんですよ。
何か自分の中のものを出せる場所やタイミングを。

藤を卒業後、宝塚音楽学校へ進学した安達さん。
現在は札幌に拠点を戻し、華やかに活躍しています。
そんな彼女の子ども時代は、地味?運動音痴?
安達さんの過去を紐解いていきましょう…。

どんな小学生でしたか?

全編通してあんまり活躍する児童じゃなかったんですよ。

それは意外です。では、運動は?

ものすごい運動音痴なんです…。びっくりするくらい足遅いですよ。

それも意外です!習い事は何かなさっていましたか?

バレエを、5歳から。習っていたのはコンテンポラリーも教えるスタジオで。
私はクラシックバレエが好きなので、今となってはクラシックの基礎をもっとやっておけばよかったなと思っています。

安達さん_1-1

藤の受験を決めた理由は何だったのですか?

母が中高一貫というところを薦めてくれまして。芸術関係を続ける人たちにとっては受験が障害になる場合がありますよね。あと、私の地域にあった2つの中学校が「交互に荒れる」みたいな噂があって(笑)

ジンクスのような。

そうなんです(笑)。4歳上の兄がいるので、地元の中学の雰囲気を母はわかっていて「ひたすらお勉強とバレエしかやらないようなとても固くて地味な娘は、あの学校には合わない」と思ったらしく(笑)。それで藤の方が合うんじゃないかって見学会に連れてこられたんですけど、私もすんなり「受ける」と。

お母様は、藤の短大を出ていらっしゃるんですよね。

元々は帯広ですが中学までは帯広にいて、「都会に行きたい」と高校から下宿に入り札幌に飛び出てきた人です。高校は旭ヶ丘、大学が藤短大の国文で。

入ってみて、どうでしたか?

私は違和感なかったですね。外から見る藤のイメージがあるじゃないですか。
でも入ってみたらみんな普通で。すんなり溶け込みました。

担任の先生がどなただったか、覚えていますか?

中1の担任の先生が Sr. 小林で、中2の時の担任が佐藤翔子先生でした。

ゴールデンメンバーですね!

そうなんですよ。翔子先生に出会えたのも良い意味で衝撃でした。「宝塚を受ける」って言った時も、「素敵じゃない!」って言ってくださって。もっと否定的なことを言われると思ってたんですよ。でも「あら、素敵じゃない。その先どうやって計画を進めていくの?」って。すんなり話が進んで。

宝塚の受験を決めたのは、いつ頃だったんですか?

まず、高校の進路選択のときに初めて「わたしはどうしたいんだろう?」って思って。その前は平和に暮らしすぎて何にも考えていなかったんです(笑)。
ぼんやりと、「普通に大学へ行くだろうな」程度で。
でもいざ考えはじめると、「大学に行くとしたらここかな」という逆説的な決め方をするのが嫌で。

真面目な性格がそこで出たんですね。

はい(笑)。それでウンウン悩みはじめて。実は、「せっかくバレエをずっとやっているんだから、生かしたい」という思いがあったんです。小6の時に劇団四季の CATS を観てから。

札幌駅構内に建てられた「キャッツ・シアター」の?

それです(笑)。たまたまチケットを頂いて観に行って、そうしたら舞台上で出演者が踊りながら歌っている…!という衝撃をうけて。

ミュージカル初体験だったんですね。

踊るだけでもハードなのに、同時に歌うなんて理解できない。「どうやってるの?そのしくみ何?」って、その興味があったんですよ。それがずっと根底にあって。それで、「ミュージカルをやる」という方向もあるのかなって。当時、衛星放送で宝塚等の舞台中継や関連番組が放送されていて、ちょうどそういうものを見始めたのもタイミングが重なったんだと思います。

安達さん_1-2

はじめて宝塚を観劇したのはいつだったんですか?

それが、中2のときに同級生ですごく好きな人がいて、「見て!すっごいかっこいいから!」と宝塚のビデオを持たされたんです。日曜日家で観て「へぇ~…」で終わったんですよ。「かっこよかったでしょ?!」と聞かれても、「…うん」というような(笑)

では、その時はまだ自分が受験するとは思ってもいなかったわけですね。

「こういうものもあるんだな」くらいで。うちの母は「……宝塚?」みたいな感じだったんですよ。当時は『見ず嫌い』な感じで。

それなのに、高2の時には、「受けよう」と決意したのですね。

中卒から高卒までの最大で 4 回受けることが出来るシステムなんですが、その時点で私は2回、受験機会が自然消滅してる。

高2の時、宝塚だけを考えたんですか?劇団四季は視野にはなかった?

宝塚だけです。舞台に必要なことを勉強する学校が2年あるというのが魅力だったんですよね。2年間しっかり勉強できるという、自分が経験していないジャンルに対してもしっかり勉強ができるから、万が一入ってみてそこが合わない世界であっても、そこで勉強できる2年はすごく魅力的でもあったので。

なんてすばらしい理由なんでしょう。

すごい…ビジネスライク(笑)

たとえ進む道が変わったとしても、スキルは身につくということですもんね。

合う合わないは入ってみないとわからないから、もし合わなくてもその時点で離れることが可能だと思うし。
「舞台に立つ前に勉強できるのは利点だ」と。2年勉強したら自動的に入団できるので、舞台に立つまでのルートが明確だっていうところも、大きかったです。

では、高2の時に、大学進学の選択肢をはずしたわけですね。

ただ、両親は、「大学を受けた上で、宝塚を受けなさい」と。

では、大学受験の準備も並行で行ったのですか。

はい。ただ、高卒1回のぶっつけ本番は怖いので、「高2時点でも社会勉強のために1回受けなさい」と。様子が全くわからないので。

ちなみにその時は?

1次にもひっかからなくて、玉砕して帰ってきました。バレエはともかく、声楽が…。声楽の先生についたのも高2に入ってからで、ギリギリ間に合わせたという感じでした。当然全く引っかからず。うちの親は「万が一それで気が済めばそれでもいい」と思っていたみたいです。でも、基本的に負けず嫌いなので。

「負けず嫌い」は、今までインタビューした方たちの特徴です。

そうなんですか(笑)。なのでそこで本格的に火が着きまして。母の姉が国立音大出身なんですが、そのつてで、宝塚OGで実際に受験生を何人か抱えている、という先生を紹介いただいて。高3になってからは、夏休みや冬休みは千葉の伯母のところに泊らせてもらってそこへ通いました。その頃、第2・4土曜が休みだったので、そういう時も利用して行ったりとか。

わ~、それはお忙しいですね。

当然、学校の成績はどんどん下がりますよね。

その時点では、大学受験も考えていたわけですよね。

それが神経性胃炎につながってしまって…。体調を崩したことで、父が「宝塚受験だけに絞っていい」と。

それはよかったです!

宝塚の1次試験は宝塚と東京の2つに会場が分かれていて、東京は昭和音大の校舎をお借りしてやるんですけど、今度は父方の伯母の家に泊まって。

伯母様方のおかげで、いつも拠点が。

そうなんです。2度目のチャレンジは 1 次合格、2次は宝塚の会場で試験を受けました。同級生が大学入学の頃、一足遅れて合格が決まり、藤に報告に来たら貼り出されていた合格実績の最後の欄に、手書きで私の名前を追加下さって…。先生方がとても喜んでくれました。でも実はその頃の記憶があまりなく…気付いたらもう関西行きのために新千歳空港にいました。

いきなり、独り立ちですね。親元を離れ…。全員寮生活ですか?

自宅や親戚の家が通える範囲にある人は通いでも良いんですが、それ以外は基本的には寮です。自宅が関西圏でも通うのが困難な場合は寮に入る人もいました。わたしは、関西には親戚も知り合いも誰もおらず、初めての寮生活でした。おかしな話なんですが、宝塚に受かったら札幌を離れるじゃないですか。でも、その意識すらなくて。合格してから「あ、そうだ、私引っ越さなくちゃ」って。

寮は、1人部屋ですか?

私は2人部屋でした。3人部屋の人もいます。学校時代は同期と相部屋です。
私は高卒だったので、中卒の子と同室でした。

入って、「合わない」と思う方もいるんですか?

1週間で辞めていった子もいましたね。あとは、音楽学校で2年間は学びましたが、歌劇団には入団しないという選択をした子も。

どんな授業があるんですか?

バレエ、ジャズダンス、タップダンス、日舞もあるし。歌でも、楽典やクラシック、ポピュラーソング、合唱もある。あと、演劇やピアノの時間があって、茶道、狂言…。

レッスンを受けて、「楽しいな」と思ったものは何でしたか?

最初手も足も出なかったのに、楽しくなって段々と最終的にはその分野の人と思われていたのが、芝居なんです。
はじめは、「何をどうしたらいいのかわからない」という状態で。セリフも喋ったことないですし。まあ…本当にひどかったですよね。

「芝居」が楽しくなったのはどういったきっかけで?

音楽学校だけじゃなく歌劇団で演出をしている先生が教えに来て下さることもあるんですが、泉鏡花の『天守物語』なんかを課題に持ってくる先生がいらして。

日本文学的な感じを。

時代物のお芝居とかも作る先生だったんですよ。その先生の課題の時に、ものすごく情景が目に浮かんで。そういう情景を思い浮かべながら演じた時に、グンと成績が上がったんです。「こういうことか」とその時はじめてわかって。やっとちょっとやり方が見えた、という感じでした。

課題の作品も、良かったのかもしれませんね。

子供の頃、すごく本を読んでいたんですよ。『風と共に去りぬ』読破とか、公開している映画の原作なんかを読み漁っていて。私は空想の世界に入っていく子どもだったので、そういうのがかえってよかったのかな。ただ、うちにあるものを発散する術を身に付けておくというのはすごく大事だと思うんですよね。子どもの頃は、発散できないタイプだったので。

その華やかさから、「指揮者やらない?」とかなかったんですか?

華やかなんて言われたことなかったです。はじっこの方で青白い顔して…。当時は目立つタイプではなかったです。

安達さん_1-3

今日現れた時、光り輝いていましたよ。

そう言って頂けるのも宝塚に入って磨いていただいたからこそですよ。

やはり磨かれますか。

日々観られる生活ですから。学校で学んだことのひとつに「自己主張しないと生きていけない」。
音楽学校1年目の夏休みに家に帰った時に、私がマシンガンのように喋っていたらしいんですよ。兄が「何が起ったんだ」って言ったらしくて。「彩子どうしたんだ」って。

まだ、3ヶ月くらいですよね。

すごい喋っていたらしいです。

それまでは学校だけではなく、家でもあまりしゃべらない子だったんですか?

小さい頃から兄の方が喋るタイプだったんですよね。だから、兄がずーっとひっきりなしに喋っているから、「きっと私は今喋らない方がいいんだ」って。

空気をよんで。

その代わり発散の仕方がわからなくなって。だから私、探していたんだと思うんですよ。何か自分の中のものを出せる場所やタイミングを。

無意識に。それが宝塚志望につながったんですね。

「このままでは嫌だな」って。学校でもプライベートでも、自分の思っていることをちゃんと出さないような子だったから、そういう部分に対して自分自身に腹が立っていたんです。学生時代でも、ちゃんと自己アピールしている子はいるじゃないですか。そういう人たちに一種憧れみたいなものがありました。

それで、「宝塚」。

また極端な選択 ( 笑 )。変化球投げちゃったみたいな感じで。

在校生へメッセージをお願いします。

この多感な時期は、色んな環境なり自分の身体なり精神的なものなりがものすごく変わる時期で、その時に中高3年ずつの区切りってすごく短い。藤では6年であることの特性を活かせると思うんです。やってみたいことは色々挑戦したらいい。だめだったら引き返せばいい。大人になってからは引き返せないことが多いから。単純に楽しい学生生活もありだと思うので、無理になにかしろというわけじゃないですけど、でもやってみたいことがあれば、どんどんやってみればいい。また、それを応援してくれる先生たちがいるから。「宝塚受ける」っていっても大して驚かず「いいんじゃない?」って言ってくださる先生たちですから(笑)


撮影場所:藤学園
インタビュアー・ライター/新山 晃子
カメラ/中村 祐弘
編集/松永 大輔