進路について OGの活躍
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アナウンサー 森田絹子さん 第1話トップ
第1話

「なりたくない職業は?」と聞かれたら、
「総理大臣とアナウンサー」

北海道放送(HBC)でアナウンサーとして働く森田さん。
ニュースでは聞きとりやすい声で原稿を読み
情報番組では、溌剌とした姿を見せています。
そんな彼女の中高時代は、どのようなものだったのでしょう…。

藤を志望した理由を教えて下さい。

小さかったので正直覚えていないんです…。両親ともずっと札幌に住んでいるんですが、藤女子の教育理念がいいなと感じていたらしくて。「女の子が生まれたら藤に入れたい」と思ってたみたいなんですよ。

森田さんが生まれる前からということですか?!

そうです(笑)。小さい頃から、藤の生徒が歩いていると「ほら藤の制服かわいいね~」って母が(笑)。それから自然に自分自身も藤に憧れるようになっていって。「制服着たいな」と。

森田さん_1-1

素直な性格ですね。

小っちゃい頃は。今はあんまり素直じゃないですけど(笑)。それで、小学3年生くらいから私立受験コースの塾に通って勉強しましたね。

実際入学してみて、ご両親の反応はいかがでしたか?

大学まで藤に行きましたけど、両親は藤の先生たちにはとても感謝していて「藤に入れてよかった」って言います。ちゃんとした子に育つって。マナーの観点とか、先生方の生徒1人1人に対する愛情が深くて勉強だけできる子であれば良いという教育ではない、と。のんびりした校風というか、あったかい校風ですね。喜んでいます。

今でも藤の話はしますか?

しますね。なにかふとした時に、「それ藤で教えてもらったの?」とか。「藤の教育が生きてるんじゃないの~?」とか、まぁ、ふざけ半分ではありますけどね(笑)

森田さん自身も、入って後悔はなかった?

6年間で、途中で共学に憧れたりだとか、校則厳しいなとかはありましたけど、でも心のどこかでやっぱり藤が好きだってわかっていたし、後悔は、うん、本当にないですね。多分私、藤に入ってなかったらアナウンサーになっていなかったんじゃないかなって。

藤で一番思い出に残っていることはなんですか?

考えてきたんですけど…(と、手書きのメモを出す)、ある時に授業中にシスターの先生が教室に入ってきて、「みなさんに悲しいお知らせがあります。エレベータの中におにぎりが落ちていました」って悲しい表情で言われたことがあって。それが今でもすごく印象に残ってて。多分、おにぎりが落ちていたという事実以上に、おにぎりを作ってくれた方の思いや、落ちていることをみて何も感じないことに対する悲しさだったんだと思います。

それはすごい思い出です…!

あともうひとつ印象に残っていることがあって、言いづらいのですが・・・私、学校を出た後、髪をほどいて歩いていた時があって。一緒にいた友人はすこしスカートの丈が足りなく…。地下鉄の駅で瀬戸先生に肩をトントンと…。それで翌日瀬戸先生に呼ばれまして。でも、頭ごなしに「校則違反はいけません」って叱られたのではなく、「あなたたちは、学校ではそういう姿はしていない。外でそういうことをするというのは、嘘の姿をみせているし、あなたの心に偽りがあるということではないかしら」というようなことをおっしゃって。その言葉が今でもずっと心に残っているんですよね。

在学中がんばったことはなんですか?

美術はけっこうがんばった…というか楽しかったです。

アナウンサーのプロフィールに「工作」とありましたね。

書いてますね。ギフトカードを作るとか。段ボールで犬小屋つくるとか(笑)。
そういうのが多分好きで。プレゼントする時に厚紙切って貼ってとか。

素敵ですね。美術部には入らなかったんですか?

クラシックバレエをずっとやっていたので、部活に入る余裕がなくて。

プロフィールに「バレエ」という項目もありました。

4歳から高2まで続けました。下手なんですけどね、好きだったのでバレエだけはずっと続いたんですよね。

(藤の一筆箋を出し)これを描いたのは森田さんですよね。

懐かしい!

森田さん_1-2

専門的に絵を学んでいないのに、どうしてこんなに上手なんですか?

うまくないです…ただ好きでした。
私、コツコツが苦手な方なんですけど、根性もないし。でも、美術だけは学校に遅くまで残ってやったり。計画段階からきっちり考えたり、画材屋さんに行ってみたりとか。根気よくやってたなと思います。成績を気にせず、やりたいことにのめりこんで努力をしてたのかなと思います。

今はもう描いていないんですか?

たまに放送で有名人の似顔絵を描くんですけど、私、人物が描けなくて。それでちょっと気持ち悪い絵を描いて笑われるというネタをやってるんですが。
すっかり「画伯」キャラ(笑)

中高時代、どんなキャラクターだったんですか。

色んなところで言ってるんですが、「アナウンサーになった」と言ったら、みんなが驚くようなキャラクターです。これはアナウンサーになったきっかけにも繋がるんですけど、とにかく良い面でも悪い面でも「目立たないようにしよう」という性格で。みんなの平均でいようとか、リスクは絶対に負わない。指揮者とか学級委員とか絶対にやらないし。「普通の子」っていう感じだったんじゃないですかね…。

いつ頃からそういう性格になったんですか?

思春期に自我が芽生えてきた頃ですね。「うまく渡っていこう」と。逆にずるがしこいところがあったんですかね。友達といるときははしゃぐし明るいし、バカなことも全然やるんですけど、大人数の注目の中だとダメで。英会話の発表とか本当に1週間くらい前から憂鬱で、人前でしゃべるのが嫌だったんです。合唱コンもできるだけ最後列にいたい、という感じだったんですよね。「注目されないようにしよう」と。

それがアナウンサー志望の背景にあるわけですね。

「なりたくない職業は?」と聞かれたら、「総理大臣とアナウンサー」と言ってたんです。それぐらい大勢の人に向かってしゃべるとか、リスクを負って意見を言うとか、避けてたんですね。でも、そう言うってことは、どこかで気にかかってるというか、目立つことをしてる子とか、自分の感情をはっきり出せる子、友達と大ゲンカできる子にちょっと憧れがあったんだと思うんですよ。ずっとたまってたものがあったと思うんです。
高校卒業して大学入ると、集団生活がなくなって、周りにどう見られるとかどう思われるかとかあんまり気にしなくてもいいようになるじゃないですか。そうなると、「このまま自分をおさえて暮らすのも…」と思い始めて、就職を考える時に「なにか自分でも驚くようなことやりたいな」「失敗してもいいから、一回正反対の性格に変わってみよう」と。勇気をもって、思い立ったのがアナウンサーという仕事だったんですよ。

森田さん_1-3

実は前回の「レディに質問!」に出演いただいた安達さんも、目立たない生徒だったけれど、自分を出せる場所を探して、宝塚に飛び込んだって。

えーっ!そういう人多いんですかね。

現在華やかな舞台に立っている方は、中高時代はエネルギーをためていたという場合があるのかもしれませんね。

それはあるかもしれないですね。

思い出に残っている授業はなんですか?

こういうと失礼になりますが…一番嫌な授業だった英会話ですかね・・・。

自己PRをしなきゃいけない授業ですからね。

そうなんです。「じゃあみんなの前に出てしゃべってみて」とか、苦手でしたね。節目節目に、発表とかディベートがあったんですが、その時期になると本当に胃に穴が開くんじゃないかなっていうくらいお腹が痛くて眠れなかったりして。
「公」となると、急にしゅんってなっちゃうんです。もしその性格がなければ、もうちょっと授業に集中できたかもしれません(笑)。発表があると、授業中もずっとドキドキしていて気が散っちゃう。

「人前に立つ」ことを、森田さんは「すごいこと」だと思っていたんですね。

そうか…そうなんですかね。

大抵の生徒は、「しょせん授業内のこと」「クラスメイトの前だし」位の気持ちでしょう。でも、森田さんにとっては、たとえオーディエンスがクラスメイトであっても、「前に立つ」という行為自体が大きなことと捉えられたんですね。

その場所が「私的」な空間なら緊張しないと思うんですが、すこしでも「公的」な空間だと思うと、もうダメなんです。失敗したくない、失敗してはいけない、という意識が強かった。自意識が過剰だったというか。
今、テレビではふざけたこともやってるんです、歌ったりモノマネしたりも。
昔なら絶対に考えられないですね(笑)

他に思い出の授業はありますか?

高3の特別授業だったのかな…瀬戸先生の「男性との付き合い方」みたいな授業があって。男性の付き合い方というか…高校卒業して社会に出るときに、今まで6年間同じメンバーの女子だけだったけど、これからは新たな友達ができてそこには男性もいて、で、その中でどう生きていくか、という授業でした。

具体的な内容で、覚えていることはありますか?

自分を大切にしなさいとか、お金であなたを釣ろうとしてくるのは本当の愛ではないとか。愛についてを教えていただいて。それがすごく記憶にあって。

周囲はどういった反応だったんですか?

やっぱり思春期だから少し恥ずかしいところもあったりして、「ふーん…」とか「うけるー」みたいな空気。ちょっとマセてる子は「もうわかってます」みたいな感じ。でも私は真剣に聴いていたんです。瀬戸先生の授業に愛を感じて、「本当に生徒のことを思ってくれてる」というのが伝わってきて。他にはない授業ですよね。女子校ならではだし、本当に生徒のことを表面上じゃなく、子どものように可愛がってくれているというのがわかった。すごく印象に残っています。

あなたにとって、瀬戸先生がロールモデルなんですね。

そうかもしれないですね、瀬戸先生みたいな女性になりたいです。

友達とのエピソードを教えてください。

これが私の性格なのか、すぐに呼び捨てとかあだ名で呼べなくて。入学した頃は「○○さん」とか「○○ちゃん」ってみんなを呼んでたんです。で、Sなんですけど、「Sさん」「もりたさん」と呼び合ってて。掃除のグループが一緒ですぐに仲良くなったんですけど、キノルドホールを掃除してるときに「今日から『さん』って言ったら罰金ね」ってルールを作って。いま自分で思ってもほんとに真面目だな、かわいいな(笑)と思うんですけどね。

森田さん_1-4

どこか、人間と人間の関係に「かたさ」があったんですね。

きっと慎重なんですね。「あんなこと言っちゃって、あの子いま傷ついてないかな」「こういう風に捉えられちゃったんじゃないか」とか、けっこう相手の気持ちを気にするタイプで。
今でも、すごく仲のいい子でも「~ちゃん」って呼ぶことがほとんど。出会ってすぐ呼び捨てにするとか、いきなりグッと相手の懐に入っていくとかできないんですよね。ゆっくりゆっくりという感じ。だからSだけなんです。呼び捨てで呼び合ったのは誓約を結んだ彼女だけ(笑)

藤と他校との違いを感じたことはありますか。

やはり校則の厳しさはピカイチ…(笑)。バレエに行くときも、髪のゴムも黒いし、バッグも黒いし。他の学校の子たちはコートもカーディガンも自由で。「藤って校則きびしいんだね」という感じで見られましたが、でも、心のどこかでわかってるんですよ。「私のほうがいいんだ」って。社会的にルールを守りましょうとか、そういうことを教えてもらえてるってことはわかってて。校則が厳しかったりする、そういうところに通ってる自分が誇らしい気持ちはありました。今もそれは変わらないです。

「これで間違っていないんだ」と思っていたわけですね。

文句は言いつつ(笑)。夏に、他校の生徒さんが、公的な場でうちわか扇子のようなものであおいでいたんですよ。それをみて、「なんか、だらしないね」って友達と話したことを覚えてます。だから、私だけじゃなく、みんなどっかそういう意識があったんじゃないですかね。子どもながらにわかってたというか。ブーブー文句をいいながら、「(でもそれがいいんだよね)」って、カッコ書きで入ってるんですよ。

高校までの夢を教えてください。

それが…本当にないですね。アナウンサーになろうと思ったのも大学3年生くらいなので、それまで本当に夢がなく。中1くらいまではずっと医者になりたかったんですよ。でもそれ以降、「世の中なりたいものに自由になれるわけではない」とわかり始めて。医者になりたいという気持ちが薄れてからは、なかったですね。金融系とか事務職系が向いているのかな、とざっくり思っていたくらい。

いつごろ進路を考え始めましたか?

高2でしたっけ?文理選択を考える…その時に、私文コースに行ったんです。
それまでは進路のことで親と喧嘩したり、意地はって医者の夢を引っ張って「看護師になる」とか言ってみたりとか「推薦で医療大に行きたい」とか。でも結局なりたいものが見つかったときのために文系に、藤(女子大学)に、ってなったんじゃないかと記憶しています。

東京へいきたい、といった志望はなかったんですか?

それは思わなくて…就職も札幌しか受けなかったんです。「札幌から出たい」という気持ちがなく、むしろ「生まれ育った札幌にいたい」という考えでした。そこも保守的なんですかね…。

札幌愛があるわけですね。

はい。そうなると、藤を愛していた身としては藤(女子大学)に行こうと。自然な流れでした。

文化総合学科を選んだ理由は?

夢がなかったからこそ、多様にまんべんなく学べる学部がいいなと思ったんです。

小学生のみなさんに対してメッセージをお願いします。

どんな性格の子でも、どんな得意なことがある子でも、みんなが成長できる機会が藤にはあるし、受け入れてもらえるんです。いいところを育てて、花にしてくれるようなそんな感じがあるかもしれないですね。私にとっては生きやすい環境だったというか、のんびりと温かい雰囲気で、人と比べたり競争したりせずに自分のペースで勉強して成長していける環境だったかなって。あとは、まだ半分子どもの12歳から、大人になりかけた18歳っていう本当に長くて、そして人生の大事な時期をずっと同じメンバーで過ごしていくので…どんな自分も受け入れてわかってくれている、そんな一生付き合っていけるような友達が沢山できると思います。


撮影場所:北海道放送本社
インタビュアー・ライター/新山 晃子
カメラ/中村 祐弘
編集/松永 大輔