「こんな単純なもの簡単にできる」
って思ったら、「スカッ」
現在、京都で新進の若手漆作家として活躍中の佐々木さん。
カラフルでキュートなチェック柄の汁椀は、雑誌『an・an』に掲載されたことも。
アートに邁進と思いきや、スポーツ一色?
彼女の中高時代を紐解いていきましょう・・・。
大麻の藤幼稚園に通ったきっかけは何だったのですか?
祖母は、息子を入れて子どもが4人いるのですけど、3姉妹で、母もおばもみんな藤だったんですよ。
そうなんですか!おばあさまは?
藤です。
3代で藤チームだったんですね。佐々木さんも藤の幼稚園へ行ったとき、「自分もいつか藤にはいるのかな」という意識はありましたか?
全然ないです。幼稚園の上がなにかも知らなかったですし(笑)
幼稚園の時はまだ意識がなかったようですが、藤入学はいつごろ考え始めたのですか?
高学年くらいのときに、学校祭かなにかに母と来て。
その時に高平先生に会って、母がお世話になっていたのもあって、挨拶して。「この子がいるんです~」みたいな。「いい年頃ですね」みたいな感じになり(笑)
大人の世界ですね(笑)
「是非きてね」みたいな雰囲気になって。「あ、そういうことなんだ」と思って。でも親は、「強制するつもりはない」って言うんですけど、半分強制みたいな…。
外堀は埋められていますね。
「自分で決めなさい」というスタンスではありました(笑)
佐々木さんの決断は?
せっかく、いいっておすすめされる学校があるし、家族全員行っていたというのも、ちょっと興味あるので。まず受験しようということで、受験しました。
受験のために塾に行きましたか?
特に通いませんでした。
自分で勉強して。
そのほうがスパルタだったんですけど(笑)。ドリルをばんと買ってきて「やりなさい」と言われるんですけど、書き込んでドリルを埋めることができたら楽しかったんですけど、「何も書いてはいけない」と言われて、ノートに全部書き写して…。
それは達成感が得られづらいかもしれませんね。
そうなんです。受験は、そこが苦痛でした。
苦痛のまま受験を経て…、受かったら入ろうと?
まあ、受かったら、入るしかない(笑)。でも、まあ、行くって思ってましたね。入学してからわかったんですけど、受験の面接の先生が高平先生と小山田先生だったんです。その時に志望理由をきかれて、お二人に「見聞を広めたいから」と答えたことに、嘘はないですね。
親御さんと同じ学校に入って、感想は?
受験して藤を選んで入学したことは、人生で最初の大きな決断じゃないですか。「これで合っていたんだろうか?」とか考えちゃうんですけど、「置かれた場所で咲きなさい」っていう言葉を藤できいて。「どこでも楽しく過ごせる」って思ったんです。でも、普通に楽しかったんですよ。
何が一番楽しかったですか?
最初は不安だったんですまわりの子も受験して入ってきて、ハードルを越えてくるから。小学校の時は、「頭いい子」って思われてたのに、藤に入ったら、みんなそうなので。自分のアイデンティティじゃないですけど…。やってけるのかなって思ったんですけど、話が合うので、楽しかったですね。
実際、学習はどうでしたか?
小学校の時って100点取るのが当たり前だと思っていたので、100点とれなくなってけっこうびっくりしたんですが、まわりもそうだったので、そんなもんかと思いました。
部活動は何かやっていたのですか?
自主的な卓球同好会です。
薬丸先生の授業で、卓球にはまったんでしたっけ?
そうです。「こんな単純なもの簡単にできる」って思ったら、「スカッ」ってなって(笑)。(ラケットに)当たってもネットにかかるし、すごいなって。球が跳ねるのも面白かったし。それで、友達と「練習しよう」ってなって、しはじめたら、最後まで6年間続いてたって感じです。
6年生までやっていたのですか?
6年生の終わりくらいになったら頻度は少なくなりましたけど…でもテスト前もやってて、というかテストの日もやってて。朝も昼も夜もやってたんですよ。
私は家が野幌なので、6時半に家を出るんです。6時41分発のJRに乗って、そうしたら藤に7時20分くらいに着くんですよ。そこから、10分は生徒玄関が開くのを待つんですけど、教室に荷物置いたらそのまま卓球室へ(笑)。中1の冬に体育の授業でやってからずっと。
メンバーはどうやって集まってきたんですか?
覚えてないなぁ…。でも、そのとき集まった「一緒に卓球しよう」となった中2のメンバーが、今も交友関係ずっと続いてる感じですね。
球技大会の時は特に燃えてて、自分たちの課題を見つけて、お互いに「ここをいっつもはずすぞ」とか、「あの人はここが苦手だからこれを狙えばいい」みたいなのを自分たちで分析して「卓球ノート」つくったりして(笑)。
年度最初にクラス分けがあるじゃないですか。クラス表見て考えるのは、「今年球技大会優勝狙えるかどうか」と。
常に優勝を?
残念ながら一回もなかったかと。
冬も、7時20分から待ったんですか?
待つんです。
おかしくない?
(笑)家を早く出たいのもあって。
すごく眠いですけどね。早い電車は座れるし、座れたら寝れるし。
いつも早起きしていれば、たまに1時間寝坊しても、学校に遅刻することはなかったですね。
テスト期間中も。
やりました。で、高平先生がきて、「テスト勉強なさい」っていわれて。「でもこれがルーティンだから、これをやらないと調子が崩れる」っていいながら、やってました。
中高は、卓球人生ですね。
そうですね、藤はもう…卓球漬けでしたね。
楽しいですよね。スペースが全部視界に入っている征服感。鳥瞰図と平面図が脳内で同時放映されている感じが。
私たちが卓球をやってるのを知ってる先生は、たまに相手をしてくれたりしてました。多かったのは高平先生や薬丸先生、あと永井先生と桐原先生…。先生チームとダブルスの試合をしたり、楽しかったです。
勝敗は?
ダブルスでは勝ちました。中学生くらいでは先生方に勝てませんでしたが、高校くらいからはある程度勝てるようになりました。
大学では念願の卓球部に入ったんですよね?いかがでしたか?
うまい人がいて、「あ、すごい、私もっとうまくなれるかも!」
上を目指しますね(笑)
自分よりすごい人なんて、あたりまえにいっぱいいるっていう不安は、結局そんなにたいしたことじゃなかったのかもしれません。藤に入った時は、「みんな頭いい」。大学に入ったら、「みんな絵がうまい」。卓球部に入ったら経験者がいる。私は何の才能もない、秀でたものがないってなったらどうしようって思ってたんですよ。でもそんなことは関係なかったです。みんなそれぞれだし、だから自分もそれぞれ。それでいいんだなって思えて。
人と比べて潰れることはなかったんですね。
そうですね。まぁ不安がまったくなくなったわけじゃないんですけど。
大学のリーグとかは出なかったんですか?
芸術大学の運動って、底辺の底辺なんですよ。みんな絵ばっかり描いてるから(笑)
だから芸大は、「芸大対抗戦」しかしないんです(笑)。5芸大対抗で、「5芸祭」っていうスポーツのイベントなんですけど。底辺同士で競ってるっていう…。東京芸大、京都市芸大、金沢美術工芸大、愛知県芸、沖縄県芸です。国公立の芸大はこの5つだけなんです。
初めて試合に出て、いかがでしたか?
すごく楽しかったです。
卓球部出身の人には勝てないですが、感動して。強い人が、真剣に相手してくれるっていうのがすごい嬉しくて。ピン球があんなに重く感じたことなかったですね。でも、たまに返せたりするじゃないですか。「え?これ、もっとうまくなれる…!」。
また?!(笑)
それが楽しかったですね。
今卓球流行っているじゃないですか。おしゃれな北欧のデザイン会社で、オフィスに卓球台が置いてあったり。
(笑)場所があればしたいですね。
小学生のみなさんにむけて、メッセージをお願いします。
自分が一番というところから出たほうがいいなって思いますね。「井の中の蛙大海を知らず」ということわざの通りだと思います。小学生のときは、「大人になったらこの世界のあらゆる全部がわかるのだ」と思っていたんですが、全然そんなことはなかったですね。大人になった今でもわからないことだらけで、世界にはまだまだわかっていないことが本当にたくさんありました。「見聞を広めるため」に藤に入学しましたが、それはいい選択だったのかなと思います。
撮影場所:藤女子大学花川キャンパス
インタビュアー・ライター/新山 晃子
カメラ/中村 祐弘
編集/高橋 巧