数十兆個の細胞全部に栄養を?
嘘でしょ?!
医療法人社団H・N・メディックの理事長・院長として、
そして、ひとりの医師として日々患者さんと向き合う遠藤さん。
小さい頃は、引っ込み思案だった?
そんな彼女の中高時代を紐解きましょう・・・。
理科の小山内先生が遠藤さんを紹介してくださったんですが、まずは先生との思い出を教えてください。
小山内先生が授業でね、人体の授業だったと思うんですけれど、アキレス腱を切った時の経験談として「バドミントンの試合中に頭のうしろをバーンって叩かれたみたいな衝撃で倒れたんだ」と仰ったのを今でも憶えているんです。“腱には、それくらい強い力がかかるから、切れたときの衝撃もスゴイんだよ” っていうことを教えてくださった。
正真正銘、体を張って「切ってくれた」んですね。
そんな説明をされたなら、もう、忘れません(笑)。忘れられないエピソードは沢山あるんですが、中学2年生の時に小山内先生に理科を担当していただいた時に、一番最初に職員室に行った質問を覚えているんです。授業で先生が「血液は毛細血管を介して組織の間に液を浸して、ひとつひとつの細胞に栄養を届けている」と仰る。しかも人体の細胞の数は数十兆個あると。その細胞の全部に栄養を?血管で?なんてことはありえない!「嘘でしょ?!」と思ったんですよ。中学2年の私は、先生がわかりやすくするためにオーバーに言っているに違いないと(笑)。で、「違いますよね?」って言いに行ったの(笑)
(笑)。質問じゃなくて、「異議あり」と(笑)
「本当のところは、どうなんですか」という気持ちで聞きに行ったら…、「いや、そうだよ」と言われて、ものすごい衝撃でした。「本当に??! 無理でしょ!!」って思ったその心持ちを、感情まで憶えています。無理でしょそんなこと…と。
自然には自分の想像を超えた世界があるんだ、ということを気づかせられてから俄然理科が面白くなっちゃって。授業が楽しみで楽しみで、教科書の隅々まで読むし…。そこで藤の図書館がまた素晴らしくて、昔の教科書が何冊も置いてあったんです。あの時は、10 年 20 年前の参考書も並んでいたんです。さらには6カ年教育ゆえのことと思いますが、高校生の生物の教科書も並んでいるので、それを読めたんですよ。
興味ある分野の、高校生の教科書を中2で手に取るなんて、知性溢れてますね。
いえ。あ、でもね、私、ほんとに理科しかできなかったんです。英語は 40 点でした。アルファベットの意味がわからない(笑)。ひどかったんですよ、本当に。理科しかできなかった。国語は…本が好きだったので、理科と国語は勉強しなくても点が取れたんですが、理科は勉強というよりも興味で。小山内先生との楽しいお喋りの記憶だけで点がとれていたけれど…あとの教科が全然だめでした(笑)
ではあらためて、入学の理由を教えてください。
私、小学生の頃はかなり引っ込み思案の子どもだったので、いじめられるんじゃないかって両親が心配していたと後からききました。学校では言いたいことも言えなくて…という児童だったので、「この子は公立校に行ったらいじめられるかもしれない」と。勉強も大してできないから、周りの競争力がつく前の段階でがんばって藤に入れば、6年間はまずなんとかなる。藤の内部で(姉妹校推薦で)進学させてもらって、卒業して、お嫁さんになれば、とりあえずは、すごくつらい目には遭わず、世間の荒波にさらされずにすむんじゃないかって考えて、藤に入れてくれたと。そう両親が申しておりました(笑)
では、保護者の方のお考えで。
私は、わけもわからず。ただ、本当に(勉強が)できなかったんで、父が勉強を教えてくれました。単身赴任先の浦河にいる父と札幌の私が同じ参考書をね、『自由自在 算数』を買って。
それは、面白いです。
父はそれを職場においておくと「何で小学生の参考書?」となるので表紙を裏返して、「透析医療必携書」ってマジックで書いてカモフラージュしていました。
自由自在、厚いからカモフラージュしやすいですね。
そう(笑)厚いから(笑)
サイズも変に大きくないですし。ごまかしが効くから『自由自在』が選ばれたのかもしれませんね。
今、医師の立場で考えてもナイスアイデアです(笑)。
それで、実際の指導は毎日電話ですよ。FAXもメールもない時代ですから。
電話で、「明日には何ページの何々をやっときなさい。パパも解いとくからね」って。で、電話でずっと式をいうわけですよ。「ここがわからなかった」って言ったら、電話で「こうこうだよ」って。
お父様、お優しいです…!
そうやって勉強をして、藤を受けて。今でも%の計算する際にはその時の父が教えてくれた計算式のイメージが頭の中に出てきますね。
小学生の時の学習って、大事ですね。
とても大事だと思います。
一生残りますからね。スマホいじってたらだめですね。
だめです。紙でやってください。
入ってみて、どうでしたか?
いや~、それが…覚えてるのは、「私は将来特にやりたいことはない」。
「とりあえず、ここにいればいいんでしょ?」と思っていて。12 歳の当時、ぼんやり生きようと思っていたことを憶えています。ただ、そんな生活は本当に楽しかったです。好きなことを好きなようにやればいいんだ~って思えて。
みなさん、マイペースですしね。
マイペースを許されていました。それをとがめられることもなかったのが良かったのかもしれません。
…と生きていたら、中2の時に。
第1回目の小山内先生の授業の衝撃を覚えています。「なんって面白いんだ」と思って。ペコちゃんの缶に入ったたくさんの色チョークで絵を描いてくれて。
「コルクを使って顕微鏡で細胞をみた先生が、小部屋のようだからセルと名付けた」とかいうのも覚えているくらい。それで冒頭の話につながるんです。
職員室に訴えにいった。
他にも色々訴えました(笑)。理科の授業が楽しみになって教科書も一生懸命読んで。先生の授業の楽しさは映画を観るかのようでした。今でいうと知的好奇心をすごく刺激されたということなのでしょうけれど、振り返ってみると、理科好きの素質はあったのかもしれません。生き物が好きで、たとえばミミズやカタツムリを大量に捕まえて箱に入れて家に持って帰って母が「ギャー」
迷惑ですね。
(笑)。あと、小学校の通学路に沢山幼虫がいる木があったんですよ。地面いっぱいに落ちている中から生きているのを拾って持って帰るとか(笑)
(笑)。遠藤さんは、一人っ子ですか?
いえ、弟がいます。でも、弟はむしろ虫がきらい。
では遠藤さんだけが大量にミミズや幼虫を持って帰る。蝶々やバッタならまだしも、にょろっとしたものを。
そう、にょろっとしたもの。特に「何かになりそうなもの」が好きでした。
藤でも、横の空き地の側溝に落ち葉がいっぱいあって、その下にミミズがいることを発見し。中1だったかな…素手で(側溝を)あけて、ミミズいっぱい出して、選りすぐって、いいミミズを並べるってことをしてました(笑)
藤に入ってからもミミズ採集を。
やってましたね(笑)。私の一番古い記憶は、医学生だった父とキリギリスを採りに行くことなんですよ。
それで、小山内先生の授業が本当に楽しくって。中2の最初の理科のテストが、当時 50 点満点だったんですよ。第1分野と第2分野があって、50 点 50 点で、100 点。で、小山内先生のテストで満点とれたんですよ。「えー」っと思って。人生初の満点ですよ。「私すごいバカだったのに…」みたいな(笑)
目覚めたわけですね。
勉強における人生の成功体験のはじめてが、中2の1回目の中間テストの、理科Ⅱだったと思います。
大事ですね。学習にとって、きっかけって。
すごく大事だと思います。さらに中3の担任が小山内先生だったので狂喜乱舞。
ただ、私はそこで勉強の楽しさ、知らないことを知る楽しさを覚えて外部受験したくなってしまったんです。それで、はじめて受験のための塾に行ってみたものの全然合わなくって。
公立の風が。
ただ、「受験勉強はテクニックなので、それを学びなさい」と言われて。ところが藤の中学3年は高校の内容を始めていることもあり、案外とできてしまうんです。受験生の中に入って塾では成績が上がるものの、私、藤の中でみると評定平均が低いんです。しかも札幌方式の受験は…。
AランクやBランクといった評定平均がものをいう、内申制度がありますもんね。
全然だめなんです。なぜなら中1は遊んで暮らしたし。
ミミズを並べてたんですもんね。
(笑)だから全然成績悪くって、結局外部受験は諦めるんですけど。
受けたとしても、難関校にいけないのであれば…。
「藤のほうがいいや」と思って。「ここでがんばろう」って決めたら、気づけば藤内部でも成績が良くなってたんですよ。その延長線上で高校になって「理学部入ろう」と思ってました。そして、生物学科に進もうと決めていました。
興味関心に対する、ストレートな志望ですね。
「研究者になろう」と思ったんです。そこでまた父と相談するんですよ。父曰く、「お前は女だ」と。当時の昭和的な観点ですけれど。
たしかに、アカデミックな世界に行って…。
「女で身を立てて食べていくのは、大変だよ」と。医学部に入って、医師免許をとれば。医学は自然科学だから。
汎用性があるぞ、と。そこで生物学に行きたかったら進めばいい、と。
…多分両親は、どこかで方向転換したと思うんですよ。私の教育方針を。
最初はのんびりと思ったけれども、こんなに成績も伸びたし、と。
私はそれでも「理学部がいい」と言い続けていたんですけれど、高2の最後の方に、「医学部でいいんじゃない?!」って思ったんですよ。でも、もう高3のカリキュラム決めてしまっていて、物理を取っていないんですよね。当時、医学部の受験は物理が大方いるので。でも私は生物が好きなので「受験のために物理?」とちょっとイラッとして、「私は生物で行く」(笑)。とはいえ生物で受けれる医学部は少なくて、さらには壊滅的に数学ができなくて。高3の春には「私はこの1年間は数学しかやらない」などと極端なことをいいだしました。現役で医学部合格なんて無理だと思ったんです。無理なので、1年、2年の浪人は覚悟します。そのためにはまず数学ができなければ医学部はもう話にならないので、それを1年間やるっていって。もう本当に藤の先生には申し訳ないんですけど、自分の勝手な時間割を作って、壁際の席だったから貼って。
教室に貼ったんですか?家の自室ではなく…。
教室に(笑)
意志を周囲に表明したかったんですね。
何時から何時までは微積分をやって、みたいな感じで書いて、それの通りに勝手に藤で勉強してて。他の授業一切聞いてなかったんですよね。それも許されたのもどうかと思うんですけど(笑)。それで本当に数学しかやらなくて。…あの~、高3の最初の数学のね、偏差値が 40 台だったんですけど、それがね、高3の終わりには 70 台になって。
すごい!
やればできたんだな、と思って。2年後に岩手医科大学に。
無事に医学部に入って、お父様は喜んだのでは?
喜びましたけれど、驚いてもいました。「無理だろう」と思っていたみたいです。この子は言ったらきかないから、諦めるまで浪人させようって両親ともに覚悟して。「だいいち、この程度の勉強で合格するわけないじゃない」というくらいやっぱり大らかだったようです(笑)
藤のみなさん、大らかですからね。常に「なんとかなる」と思っていて。
自分をわかってないんじゃないかな、みたいなね(笑)
「何をやっても愛される」と思っているみたいですね。
そう。でもね、私、それすごく強いことだと思いますよ。
どんな自分でも愛されると思っているから、どこかのんびりしちゃうんですよね。
あとでお話する麻雀の話にもつながりますけれど、中高で「絶対的に愛されている存在」っていう実感をしみ込ませることによって、人間は強くなれると思うんです。
小学校までは勉強、中高は愛される、が重要ですね。
本当に大事だと思う。小学校の勉強はね…私は「まあ、(さほど頑張らずとも)いっかな」と思うところもあるんですよ。
でも覚えてるじゃないですか。お父様の学びが。
必要なことはやるけど、それを目的化しちゃいけないんですよ。手段なんですよ、勉強はね。
私は、小学校までに『論語』とか暗記させてほしいんですよね。忘れないから。
そうそうそう!本当!
『平家物語』の冒頭とか暗誦させていてほしいんですよね。
そうそうそうそうそうそう!本当!そう!
でも私、藤の古典覚えていますよ。面白かったです。法人先生。一行ごとにスペースあけた白文を当時のワープロで文書作成して、ノートに貼って、横に書き込むのを予習でやった気がする。
古典が強いと、受験の時いいですよね。
点数とれるので。
百人一首大会とかあったじゃないですか。
今もあります。
嬉しい~!百人一首が好きでね、今でもわりと覚えてますよ。
藤の生徒で、いま勉強に困っている人たちに、アドバイスがあれば教えてほしいです。自分の成績が伸びるコツは。
興味をもつこと。あと、何でもいいから「自分はこれが得意」というのを作ったらいいと思う。百人一首でもいいし、英語の…なんだろう、例えば「私に聞けば、動詞の過去形・過去分詞形はだいたいでてくるよ」とか。何でもいいんですけど。
ひとつ、なにかの「博士」になるんですね。
1個「博士」になる。それが、自信をつける糸口だと思うんです。
突破口に。では、苦手な教科はどのように攻略すればいいでしょうか。
「もうやるしかねえ」と思う(笑)
量をこなしたということですか?
藤じゃないんですけど、当時の代ゼミに数学の名教師で木須一郎先生という方がいて。「この先生のやり方ならついていける」と思えました。
苦手教科だからこそ、一人「サポーター」をつくって。
まさしくそうです。数学はそんな感じで代ゼミに通ってました(笑)
ちなみに、引っ込み思案の性格はどうなりましたか?
…中2で変わりましたね。両親がね、口を揃えて「この子は化けた」という言葉をつかっていました。実際、「理科なら負けない」という自信を持ったのをすごく覚えています。自信が出ると「自分の思ってることを言っていいんだ」って思えるんです。
「博士」になったから。
ゲンキンなものですけれど。自信がないとやっぱり自分の言葉でしゃべるということが出来ないですよね。
あとは、知的好奇心が高まってくると、自分の意見を、例えば小山内先生だったりとか、意見交換するために、「こう思うんだ」って表現しなきゃいけなくなる。
職員室まで言いにいったわけですからね。それはもう、突破してるわけですよね。
突破しました。あっ、思い出した!極度に緊張していました(笑)。職員室入る時。
あの時に、今思えば、あれが一番最初のきっかけだったと思います。その後、夏に蝉の脱皮の観察研究をして、その分野の第一人者の先生、橋本洽二先生に質問の手紙を出したこともありました。返事を頂けてとても嬉しくて。セミの研究ノートはそのお返事もファイリングして今でも家に保管しています。
友人関係はどうでしたか?
もうね、好き放題遊びました。今でも仲良い友達が沢山います。
今でも付き合いのある友人とは、いつ頃出会いましたか?
小学校からの親友は特例として…、修学旅行の同じ班の子たちとは今でも連絡を取り合っています。
では、高1ですね。
あの時代の修学旅行は「写ルンです」を持っていくんですが、消灯後に暗闇で変顔をしてフラッシュで撮られた写真を旅の後に現像して楽しむとか。そういう遊びをしていました。
学校祭も楽しかったです!高2・3で出店や何か、好きな企画をさせてもらえる年次になって、私は何を思ったか「爆弾」という言葉を使いたくて。「ドーナツ爆弾」っていうドーナツ屋さんをやりたかったんです。でも「それはだめだ」とクラスメイト全員に却下されて。でも私は「ドーナツ爆弾がいい!!」と主張したんですよ。「わかったわかった、陶子、わかったよ」って言って、「ドリフのドーナツ」になったんですよ…。
(笑)
高3の時はたい焼きをやりたかったんです。
「たい焼き爆弾」?
1年越しで採用されまして。
よかったですね!去年同じクラスだった子が「陶子が2年言ってるから」と?
当時、「5組」は国立理系、国立文系、私立理系が 50 数人ひとクラスで高2・3と持ち上がりだったんです。「5組」という概念が認識されていました。
「5組」イコール「受験組」という?
みんな相当勉強するのというのが「5組」の通常概念だったんです。先生が「今年の『5組さん』はだめね!何だかうわっついてキャッキャッして。普通『5組さん』って、シーンとしてやすみ時間も勉強してるもんなの!それが、この有様!?」って仰って怒ってらしたのを憶えています。そんな叱責どこ吹く風で、教室内では紙飛行機が飛んだりしていました。
航空力学やりたい人によって?
そうかもしれない(笑)。本当に、バカなことばかりしていました。リンゴダイエット流行らせたりだとか。わたしが「リンゴだけ」って書いて教室に貼ったり(笑)
部室みたいなんですね。「5組」のメンバー以外は立ち入らない。そこに自治があったわけですね。
みんなで自由に夢を語っていました。「薬剤師になりたい」「獣医になりたい」とかだけでなく、文系も入ってるので。色んな考え方を持った人がいて。閉鎖された世界で身の程を知らないところで大分夢を語って(笑)。その環境がかえって良かったのだと思います。諦めなかったのも、諦める現実を知らなかったから。だから先生や両親が「医学部無理だろう」と思ってても、諦めないで。
「みんなだって『獣医』って言ってるもん」と。
で、彼らと一緒に、藤の人間関係のまま浪人もしました。
6年間は学問に目覚めて知的好奇心も旺盛だったし、友達ともワイワイ毎日楽しく過ごしていたんですね。
そう、箸が転がっても笑ってました。床に転がって床叩いて笑ったことも覚えてます、藤で。
みんなも笑かしてくるわけですね。お互いしかけてくるわけですよね。
「5組」でね(笑)
でもね、担任の先生には申し訳ないけど、その頃はクラス全員が独走していて、コントロールできなかったと思います。私言われましたよ先生に「医学部無理だからあきらめなさい」って(笑)。「本当にやめなさい、身の程を知りなさい」と言われて逆に燃えたのをおぼえています。
藤の在校生たち、いや、全国の受験生に勇気を与えるお話ですね。
本当ですか(笑)
「英数苦手だったら、医学部諦めるしかない」って、自分で諦めるんですよ。
全然そんなことないです。がんばればなんとかなります。受験勉強を目的化するからダメなんですよ。その先を見てほしい。「これ手段なんだから」って割り切ってがんばるって思えれば、いい。
『夜と霧』でフランクルも言ってます。「希望がないから生きていけない」っていうけど、「まずは靴ひもを結べるようになれ」って。「その先に生きるがあって、その結果、もしかしたら希望があるかもしれないし、ないのかもしれない」って。
なれる・なれない、じゃなくて。まずはできることを増やしていくんです。その方がね、選択肢が広がりますよ。色んな事が出来たほうが、いい。いつ何時何やりたくなるかわかりません。麻雀とかね(笑)
小学生のみなさんに向けてメッセージをお願いします。
藤の良いところは、お友達との深い関係ができること。6年間通じて、一緒に色んな体験をするんですよ。共有する体験が深いので一生の友達になれる。
ちょっとした表面上の付き合いじゃなくて、お勉強だけでもなくて。本当に色んな方面で色んなことを介して色んなことを共有する友達ができるので、何年たってもお互いをわかりあえます。卒業してからも、たくさんの思い出を語り合う仲間がいる、っていうことは、人生の財産です。中学からの6年間のつながり。忘れてほしいこともあるけれど(笑)、ただね、それでいいんですよ。
大人になってからの人生が楽しい。保証します。
撮影場所:医療法人社団H・N・メディック
インタビュアー・ライター/新山 晃子
カメラ/中村 祐弘
編集/高橋 巧