情けなくも、それが人生最初の挫折だった
「人体の神秘」に衝撃を受けた中2の理科の授業をきっかけとして、
研究者になることが夢となった遠藤さん。
藤卒業後は、医学部へ進学いたします。
そんな彼女の歩みはどのようなものだったのでしょう…。
では次は、藤を卒業した後のお話を教えてください。
大学2年生の時に、解剖学で人体の中を見た時に、小山内先生が細胞の話をした、あの時よりもさらに無理だ!この構造は…!と思ったんですよ。今でも忘れられない衝撃です。
「無理」というのは?
言葉にするのが難しいですが、「うまくできすぎている、細かくできすぎている、人間の力の到底及ばない、システムというには複雑で高尚すぎるものが、体の皮膚1枚の下にはあった。それを見て圧倒された」という感じです。
宇宙を感じたんですね。宇宙飛行士が宇宙から帰還したあとに、宗教家になるような感じで。
地球を見た時に、「あ~、これ、神いないと、説明できないっしょ」という。あまりにも完璧すぎて。
まさしくです!(身を乗り出してしまいました)言葉をみつけてくださいました!そんな感じ。
「ああ~私はそれを研究する人間になりたい」と思ったんですよ。医学部にいながら「研究者に」という気持ちが、ず~っとありました。基礎医学の方が好きで、臨床医学は当初そこまで興味がなかったんです。でも結局携わっているのが人間なので、人間の体がこんな困ったことをおこしたよっていうところから研究がはじまったりするんですよ。そこに関してはやっぱり医学部を選んでよかったなと思いました。問題提起が理論を追求するきっかけになるとすると、問題提起ばっかりですよね、医学部で学ぶことって。
「そもそも」を研究する場合は、理学部ですが。
その通りだと思います。もしくは基礎医学のほう。私も当初は臨床医学は患者さんを治療する方法論を学ぶだけかなって思ってたのですけれど、そんな浅いことではありませんでした。「なぜこうなるんだ」「だから、このように治療しよう」という学びとしての面白さはやっぱり奥が深くって、臨床の勉強も楽しく思えるようになりました。国家試験はしんどかったですが、藤の時と同じように勉強計画や暗記事項をトイレに貼りまして。同居の弟が苦笑いしていました。
もう研究室には貼らなかったんですね。
大学の講義室の机には貼りました。
決意表明はしたいんですね、やっぱり。
決意表明けっこう大事かもしれません。自分の中で決める、これやるって。
自分以外に言っちゃうのも大事ですよね。退路を絶って。
「やらなきゃ死ぬ」っていうのをよく言ってましたね。死にゃしないんですけど。
やるんだっていうのを決めて、すべからく物事をこなしていた気がする。
ちなみに国家試験の当日、終わってからすぐに麻雀をして国士無双をあがりました。
役満ですね!では、麻雀との出会いを教えてください。
麻雀との出会いは、大学4年の時でした。当時一緒に遊んでいた同級生が3人いて、彼らが麻雀好きだったんです。麻雀には4人必要なので「お前が麻雀さえ覚えれば、わざわざお前と解散した後に誰かを呼ぶ必要はないんだから覚えたまえ」と指示され。それで大学4年の時に彼らに習って、楽しくなっちゃって。
でも、3人の「麻雀の先輩たち」の中に入ったら、いつも負けるんじゃないんですか?
それが、藤での教育で「誰からも愛されている」という根拠のない自信と言ってしまえばそれまでなんですけど、「自分を持ってる」んですよ。
泰然としていて、しかもいい牌は自分にくると。
思っている。
わたしのほうが、いい役をそろえるんだと。
自信がある。失うことに対する恐怖がないみたいなところがあるんですよね。
なので、本当に大らかに、藤スピリッツで打っていて。けっこう勝ってましたね。
麻雀のプロになろう、とその時に思ったんですか?
いえ、全然思いませんでした。その時はコミュニケーションツールですね。研修医時代に、外科の先生から「お前麻雀できるんだって?」とお呼びがかかって、麻雀をしながら外科研修の延長線上にある色んなことを教えてもらったりとか、相談したい症例のお話をしたりとか。
麻雀に誘って貰って、臨床的な学びや、人脈を得ていくというような。今でも、働く場所はお互い変わってもその時の先生達と交流があります。
ところで、「研究者になろう」から「臨床の医師になろう」への変化はいつごろ、どのように?
まず大学を卒業して、北大の第二内科に入局しました。
なぜ北大の第二内科だったんですか?
膠原病の臨床と研究に興味がありました。膠原病の病態は、免疫の異常・自己の攻撃といわれています。自分で自分のことを守る免疫が、その自己を攻撃するというのは「破綻」じゃないですか。研究素材としてこんなに興味深いことはない。…解剖学で最初に触れた、人体の宇宙のような計り知れなさと完成度とが両立して内包された存在に、その破綻だけはちょっと違うでしょう、と思ったんです。
体内クーデターなわけですね。
そう。そんなことおかしい、と、知的好奇心が刺激されました。そういった背景で、病態としての膠原病を選んで専門にしようと考えました。学生の時に調べたところ、しっかりそのあたりを学べるのが北大の第二内科であると知りました。
有名な研究者がいらした?
小池隆夫先生という高名な教授がいらっしゃって、その先生の門下生になろうと北大の第二内科に入局を希望しました。医師としての技能も身につける必要があると同時に、臨床の実際の患者さんの診療にも携わってベッドと研究室を行き来する存在になりたかったので、研修医からスタートして地方の病院での研修も2年まわったのですが、早く研究をしたかったので小池教授に直談判しに行きました(笑)。そうしたら小池先生は「地方での修業は終えて、来年から大学院に入りたまえ」と采配くださって、当時の医局の原則より1年早く大学院に入学させて頂けることになりました。大学院に入学した後には保田晋助先生という先生のなさっていた全身性エリテマトーデスという病気の研究がとても魅力的で、志望して保田先生の弟子になりました。保田先生のもと、大学院博士課程を4年で修了して、アメリカのハーバード大学の医学部に留学しました。
大学院4年…博士課程ですか?
医学部は6年と修士が含まれた体裁なので、院は博士課程からです。ハーバード大学医学部の付属病院であるBrigham and Womenʼs Hospital に留学して、そのあとBeth Israel Deaconess Medical Center というところに移って、トータルで3年間ほど居て、膠原病の基礎的な研究をしていました。
ちなみに、ハーバード大学を選んだのも、膠原病の権威がいらした?
そうです。私の師匠の保田先生がいたところに、弟子として紹介して頂きました。しっかりとした成果は出せずに、申し訳なかったのですが。保田先生は現在、東京医科歯科大学の教授に就任され、ご自身が権威となっていらっしゃいます。
中高時代、英語が苦手だったとおっしゃっていましたが、留学に不安はなかったですか?
大学受験の時に、けっこうがんばったんです。私は受験英語って無駄ではなくて、勉強の仕方によっては全然しゃべれるようになるんじゃないかな、と思っているんです。
では、あとは専門用語の英単語をマスターすれば。
大学院の時に論文を読んだり、学会発表を通して英語での文書を書いたりしていると語彙は増えますし言い回しも学習できました。ただし、根本的に英語を克服したのは、高3の受験英語がベースだったと思います。それに、藤の英会話(現:LC)の授業あったでしょう?私は英語の発音をあの授業で学んだと思うんです。かなり発語を促されたので、会話することに対しても抵抗がないように教育されたのかもしれません。藤在学中に、地下街で外国人の方に道を聞かれて、英語で答えたりした記憶もあります。
よく聞かれるんですよ藤の生徒、市民のみなさまとかにも。
そうなんですね。
「お礼に羊羹一本おばあちゃんからもらった」って人もいます。
(笑)藤の英語教育はよかったなって思います。ベースを作ってもらいました。
英語に限らず、何に関してもそうですよね。その時に勉強ができているかどうかはさして重要でないと思います。触れた、体験した、方法を知る。これがあとから生きてくるんです。
いざという時に。
そう。留学の時も、自分のなかで「あの(藤の)時の」と引き出しを開けてみて、そこに後付けの勉強をコテコテと修飾していく感じでした。
留学生活は、なりたかった「研究者」という夢が実現したような、充実した毎日だったんですね。
楽しく勉強できました。ですが、父の体調が悪くなって実家の医業の手伝いが必要になったこともあり、2012 年に帰国して、最初は北大の第二内科と、H・N・メディックの両方で働かせてもらいました。
かけもちしたんですね。
はい。ただ父の体調がなかなか回復せず、私も父の体調が悪いことが辛くって。
尊敬している、大好きなお父様なわけですからね。
情けなくも、それが人生最初の挫折だったと思うんです。自分も心を病んでつらくなってしまって。なんと、その時に趣味の麻雀を介して学ぶことがありました。
なるほど。支え、気晴らし…。
麻雀との再会は…夫との出会いでもありました。
雀荘で会ったわけではないですよね?
雀荘で会いました(笑)。辛かった時の支えになってくれましたよね。私は性格的に「こうじゃなきゃいけない」という融通のきかなさと馬力が表裏一体になったような力技で進んできたんだと思うんです。夫に会うまでの人生はずっと。
「やらなきゃ死ぬ」ですからね。
それじゃなきゃ自分が許せない。自分で自分を許せない状態に陥っちゃったのが、父が病気した時だと思うんです。でも、夫は「わたしが許せないわたしを許してくれる」んです。
麻雀というゲームは自分の思い通りにならないことの連続なのですけれど、あれもね、宇宙なんですよね。自分でコントロールできない、次の牌が何かわからない、けれど自分を映す鏡であり、更にそこには何かがあるんです。
北海道でレーヴリーグという麻雀の女子競技会があって、そこで土田浩翔先生という高名な先生に出会って、また門下生にならんと弟子入りいたしました。
いい師匠、一流の方にたくさん巡り合っていますね。
その通りなんです。何故だか巡り合わせていただいて。こんな札幌の片田舎にいるのに。
土田先生は札幌在住なんですか?
いえ、東京ですが、札幌で麻雀の競技会を主催していらっしゃるんです。
普及活動の一環でしょうか?
そうですね。そこの網に私が引っ掛かったんですね。今も指導してくださっています。2017 年に「プロ試験を受けたい」という相談をいたしました。麻雀には何かあるぞ、と。競技としてしっかり突き詰めたくなりました。
井上陽水も「欲しいものはない、職業に対する誇りもない。でも麻雀だけはとことんやる」って何かに書いてました。
同じかもしれません。辛い時に麻雀に救われるのはあるかもしれません。
平等ですもんね。卓を囲む者たちは。
そうなんです。そこには社会的な地位も何にもなく。麻雀は4人がいないと成立せず、自分が、自分が、だと絶対ダメなんです。他者との調和が必要だということを教えてくれます。誰に対しても「いてくださってありがとう」。
倫理の授業の3コマ目みたいですね。「人生は自分の思い通りにならない。しかし、そこにどうやって他者と帳尻をあわせて生きていくか」。これ、3コマ目なんですよ。
まさにそんな感じですね。天秤にかけたわけではないけれど…研究や、仕事や、やりがいや、色々なことを考えてでた結論は「家族が大事」ということでした。
人生のひとつの核が見えて。
実家で医業を腰を据えて挑もうと腹をくくったのが 2015 年でした。
ここに自分の力を注ぎます、と。
その時に北大の第2内科の現教授である渥美達也先生に相談をいたしました。
渥美先生は私が研修医の頃からずっとお世話になって尊敬している先生で、父と渥美先生は師弟関係にあったという縁深さがあるんです。私は渥美先生に「こんなはずじゃなかった(涙)」って様々な葛藤を吐露したんです。そしたら渥美先生、「お前の人生の目的はなんだ!」って優しく一喝してくれたんですよ。
「えっ?」って思いつつ、私の口から出た言葉は「真理を追求することです」だったんです。
哲学者のような台詞です。
でもその時先生はね、「リーダーシップを発揮することも大事だ」って言ってくれました。組織を率いなさい、というようなことを指南してくださいました。
「リーダーシップを発揮しなさい」という言葉をずっと考えています。今も。
私は真理を追究したいんだけど…と思いながら(笑)
それは、個人的なプレーですもんね。それもやっていいけれども、リーダーシップを発揮しなさい、と。
すごくありがたかったですね。それに、結局今は基礎研究ではなくとも、いまこの立場でできる臨床研究を少しずつでもやっていこう、ものごとの真理に近づく道はどこからでも辿れる、と思えるようになっています。
引っ込み思案にまたなりそうだったところを、引き戻してくれたんですね。
そうかもしれません!
遠藤さん自身も、その言葉がストンと落ちたわけですよね。
落ちました。「なるほどこれ、私に与えられた使命なんだ」って思って。
麻雀の土田先生のご指導にも似たところがあります。私、麻雀って「自分しかでてこないな」と思ったんです。他人とプレーしてるんですけど、自分の弱いところ、醜いところ、金太郎飴のように、自分の顔しかでてこないんですよね。わからない未来を相手に、でも自分はこうするんだって、一打一打を切り出していくのが麻雀そのものなのですが、私は土田先生にご指導頂くことを通して、競技として真剣に向き合うべきだと思うに至りました。そしてプロになると、そういう志を持つ方々と試合として麻雀ができる。何たる自己研鑽!これは自分が人として強くなってくためには、この場に身を置いた方がいいと思ったんですよね。
2015 年にプロになったんですか?
プロになったのは、2017 年かな。当院に腰を据えた頃はまだ余裕がありませんでした。
この病院で、改めて覚えることが多かったわけですね。
膠原病を主に学んでいたのに、突然透析医療も勉強することになったので。しかし実は透析も、腎臓内科を通して北大の第二内科がカバーする分野にあるんです。それに父にシャント手術(動脈と静脈をつなぐ、血液透析に必要なもの)の指導をしてもらいました。
院内の表示に、遠藤さんが内科で、腎臓内科には別の先生のお名前が…。
透析医療は全医師で一緒にやっています。
先生は、どれも診れるわけですね。
スペシャリストかつジェネラリストであれ、と思って。
海外の医師のように。
何でもできるぞ、という医師になりたくって。
よく外国の科学者の肩書にある、医師兼物理博士兼ミュージシャン、みたいな。
(笑)自分の興味あることは、どこまでも掘り進んである程度の「できる!」までやりたいんです。だから、透析医療にも携わって、シャント手術の手技も習得しました。
お父様から教えていただくって、素晴らしいですね。
はじめは小学生の頃、藤の受験で勉強を教えてもらってから、最後には医師として一番大切な精神や技術を伝授してもらいました。今は一人でやっています。
一子相伝。お父様もうれしかったでしょうね。
話としてはくるっときれいにまとまって。父に最初と最後を教え、支えてもらいました。
いや~でもお話していて改めて気付きましたが、私は本当に多くの良き師に巡り会って、お世話になってきていますね。
この先人生どうなるかはわかりませんけれど、自分ができることを、一つ一つ寄せて・寄せて・寄せて身にまとって、自信をつけることの繰り返しなのかなと思います。できればそれを…「人のために」という言葉、私は昔からどうもしっくりこなくて若い頃は「まやかしだぞ」なんて思っていたんですれど。実は私、出身大学の入試の際の小論文が「ボランティアについてどう思うか」という問いだったんですね。当時はボランティアはまやかしだ、などと思っていたので全否定する小論文を書きました。子供だったと思います。
批判的思考ですね。これも大切な思考法ですが。
今でも特にボランティア活動に精を出すということはないんですが…たぶん、東日本大震災の時にはそういうことではなくて、理屈抜きに何かに突き動かされた初めての体験でした。
東北は、大学時代を過ごした思い出の地でもありますしね。
当時私はアメリカにいたんですが、地震があった翌朝、ハーバード大学から学内の日本人にお見舞いのメールが来たんです。ハーバードはハイチの地震があった際には、現地へ飛ばすボランティアとして医療資格者を募っていたのですが、そういう動きはなかった。そこで、「今回は日本への援助はないの?」と思ってしまったんですね。メールは百人超に一斉に送られていたので、ベッドの中から即座に「日本への何らかの援助をしてほしい。ハイチへは医療チームを派遣してくれたじゃないか。このメールを読んで同調してくれる方は声をあげてほしい。」という内容のメールを返信しました。何名か賛同くださる方がいらっしゃって…翌週出勤したら職場に電話がかかってきました。「それならあなたが陣頭で支援活動をしなさい、公式にサポートしますから」という内容でした。
さすが、プラグマティズムの国です。
このフットワークの軽さが有り難かったです。有志がたくさん集まって、数人の医師を現地に派遣できました。題材は何でも良いのですが、…「良き魂」がふれあうような仕事を一緒に出来たことで人を心から信頼出来るようになるものなんだな、ということも、その体験を通して学びました。
どんな方とお仕事をなさったんですか?
現在 UCLA の医学部で助教授をされている津川友介先生。腎臓内科のバックグラウンドをお持ちでしたのでハーバードでの大学院時代は長期休暇のたびに当院で勤務くださいました。医療政策学者としてご活躍で、日本のメディアに掲載される記事を通して、いまでも当院の患者さん達に慕われています。
こちらの病院にもいらしてくださったんですね。
あとは、現在ケンブリッジ大学の医学部で助教授・上級研究員をされている今村文昭先生。栄養学の研究会を通して共通の知り合いが判明してお互いびっくりすることもありました。当院に研修に来た学生の留学の世話をして頂いたこともあります。科学への姿勢が極めて真摯で、私が最も信頼している科学者のひとりです。彼も麻雀を知的競技として捉えていて、時々真面目な麻雀の話題もしますよ。
麻雀は「娯楽」ではなくて「競技」なんですね。
ただ、競技として真剣に向き合ってからは「このタイトルを獲りたい」とか「この役をあがりたい」とか、そういうことに目的を据えてしまうのは違うと気付きました。総じていえることは、自分が自分の満足のいくがんばりをしたその先に、行う医療や研究が人のためになったり、麻雀でタイトルを獲得したり、そういった色んなことが結果として出てきてくれれば、それがひとつの幸せということなんじゃないかなって思います。
在校生に向けて、メッセージをお願いいたします。
藤の教育は、自分の生き方の礎を作る手助けをしてくれています。在学中にそれを自覚することは難しいので、今は無駄かなとか、どうしてこんなことを?と思うことも、とりあえずやってみるといいと思います。おそらくそこには、しっかりした哲学が入っていて、後々どこかで芽が出るかもしれない…ということが至る所に敷き詰められているのが藤の教育です。だから、あんまり「いやだわ」とか反発しないで。「とりあえずやってごらん?あとでいいことあるかもよ」。
撮影場所:医療法人社団H・N・メディック
インタビュアー・ライター/新山 晃子
カメラ/中村 祐弘
編集/高橋 巧