進路について OGの活躍
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武田美千子さん 第1話トップ
第1話

だから私、いまだに止まります。
雪道。

札幌どうぶつ専門学校の学校長として、
日々アクティブに働く武田さん。
小さい頃は、体が弱かった?
そんな彼女の中高時代を紐解きましょう…。

藤に入学した理由を教えてください。

私、体が弱かったんですよ。実は。小学校3年生の時にネフローゼ、腎臓病ですね。急性ネフローゼ発症して。腎臓病って、過激な運動だめなんですよね。
塩分…食事制限。水分、塩分、食事制限、あとは急激な運動っていうのが規制されて。小学校の体育の授業が全部見学だったんですよ。それで、「これは中学から高校まで、エスカレータであがれる学校」ということで、なんせ教育熱心な親ですから、「藤しかありえない」と。それから私なりにお勉強しましてね。

当時は、今より狭き門だったのでは?

そうなんです。倍率2倍でした。なので、勉強しました。それで、合格ができたんですよ。

武田さん1

状況を考えて、親御さんが選んでくださったんですね。

そうなんですよ。だから私も、入りたかったですし。

ではお父様に言われて、「いやだ」ではなく。

「入りたい!」って。当時小学校で仲良かった友達も、私が行きたいっていったら、「私も受ける!」って。すごく仲良かったお友達が一緒に受験してくれて。で、その方も合格したんで一緒に入学したんです。

では、入学してどうでしたか?

あの~…私、英語が全然できなかったんですよ。私はにわかで勉強したせいなのか…ローマ字も大してわからなくって。ローマ字で、ka・ki・ku・ke・koとかも書けなかったんですよ。

小学校で、ローマ字を学習しますが…。

そうなんです、そこが抜け落ちていて。
もう英語の授業にとにかくついていけなくて。最初のテストで 50 点を切ってしまったんですよ。そしたら、当時は居残りですよね。

えっ、50 点を切って居残り…?!

「藤は英語に力を入れている学校です。英語に力を入れているからこそ、他の教科だったら補習はしないけれど、英語だから補習してあげます」ということで…。

なるほど。

でもね、ひとりかふたりなんですよ(涙)。何十人も受けてればいいんですけど…。そこで、悔しさがあって、すごい勉強したんですね。次のテストの時、何点かがわからないんですけど、ちょっと点数が上がったら先生がみんなの前ですっごい褒めてくださって。補習からも免除され。

一度で挽回したわけですね。

そうこうしているうちに、私の仲良かった友達が、親の転勤で1年生のうちに道外へ行っちゃったんですね。ところが、もう、よくわからないんですけど、今でも仲良くしているお友達っていうのは、1年の時に同じクラスだった子です。
(このインタビューのための)写真を探していたら、なんと、当時の交換日記が。ず~っと私がその子としていた交換日記がでてきて、(彼女は)寄宿生だったんですけど。

いつ頃まで続けていたんですか?

びっくりしたんですけど、高校でも続けていて。

ご縁は今も続いていますか?

今もです。

部活動には入っていましたか?

演劇部に。中学からです。演劇が大好きで。もともと好きだったんです。

渋い小学生ですね。

渋い小学生ですよね(笑)
こないだ見つけた交換日記を見て、「あ、私はこのきっかけで劇団四季がこんなに好きになったんだ」ということがわかったんですけど。演劇部がなくなったタイミングに、札幌にはじめて劇団四季が「ベニスの商人」で来たんですよ。そこで私は、憂さを晴らすために、劇団四季を観に行っていた、っていうくらい演劇が大好きで大好きで。

今、演劇部はなくなってしまいましたね。

高校生も一緒なので、それなりのものをやってたんですね。講堂でやらせてくださっていたので…体育館の舞台じゃないので。なので、演目も「どん底」とか。私、びっくりして、「中高で『どん底』やるんだ」って。なおかつ男性がいないので、「男役」「女役」に…、宝塚じゃないですけど、やっぱり男役の先輩とか女役の先輩とかいて。
でもある時、演劇部は廃部になってしまったんです。それで、日記によると、何度も行ってるんですよ、直談判しに。「演劇部はなくてもいい、でもわたしたちだけでも、同好会のようなものをやらせてくれ」って。

なんとか、表現の場を確保しようと。

ええ。でも何度お願いしてもだめで…。日々毒づいている日記がダーッてあって(笑)。「やらせてくれない、やらせてくれない、きいてくれない……」って。そこのタイミングで劇団四季が来て、観に行って、で、すごいファンになり、私が藤の中で劇団四季を広め。

啓蒙活動を。

高1くらいだったと思うんですけど…仲間が「出待ち」をして、終わったときに。でも、市民会館ガラッガラで。出待ちをしていた時に出てきたのが、市村正親さん、鹿賀丈史さん!

一流の方々じゃないですか。

そうです!その方たちが「一緒にご飯食べに行くかい?」って言ってくださって。
私は当時そんなに一生懸命じゃなかったんですけど、その中の一人がすごく一生懸命な子がいて。「応援してくれて、ありがとう!」みたいな感じで。

ガラガラな客席を、熱心な女子高生たちが、チケット代を払って埋めてくれて。

そうなんですよ。で、そのうちの一人がけっこうがんばってて、ファンクラブみたいな会をつくって。本当にちっぽけですけど。札幌では、私たちが「はしり」だったんですよ。

演劇部がなくなってしまったけれど、劇団四季のおかげで。

そうなんですよ。日記によって、「そうか、それで劇団四季に私はのめり込んでいったんだ」というのが、そこでわかったんですよ。
なにかの突破口で、学年で披露するものは認められていて…。

当時のアルバム

学校祭の講堂発表でしょうか…?

だと思います。それで、当時「犬神家の一族」っていう映画がちょうど皮切りで。

角川映画の。

古谷一行さんが主演で。あの、パロディにしようと思って。各クラスの中に「面白い人」っているじゃないですか。決して演劇なんてやっていないのに。

キャラが立っている人々が。

「絶対松子はあの人だ」とか、頼み込んで、面白そうな子を各クラスから引っ張ってきて(笑)
とにかく人を集めて、それをパロディでやったらすっごいうけて。

武田さんの配役は?

私はね~、女性の役だったと思います。

じゃあ、犯人ですね。

犯人でしたね!犯人をパロって。私も、人を集めた以上、誰かと私が何人かで一生懸命になって脚本を書き…。

では、それで演劇をするという欲求が叶えられたわけですね。

キャストがよかったんだと思います。だって、各クラスの強者どもが集まってきてやったんで。

では、武田さんの中高時代の思い出は、「演劇」なんですね。

ごめんなさい、勉強はしていません(笑)。私の6年間は、演劇です(笑)

演劇に捧げ…。それ以外の思い出はなにかありますか?シスターとの思い出など…。

やっぱりサダ先生ですね~。

小林サダ先生。

授業始まる前に瞑目が。最初、「なんでこんなことするんだろう」って。必ず、何分間か。心が凛と静まる。当時、言われたのが、「雪道を歩いている時に、人が歩いてきたら、藤の生徒は必ず立ち止まる。二人が通れない時、必ず立ち止まりなさい。そういう生徒じゃなきゃいけない」と言われたことを、とても覚えています。

サダ先生だからこそ、心に響くんですよね。

だから私、いまだに止まります。雪道、細い一本の時は。「ここは行っちゃいけない」と思って。

サダ先生とはいつ出会ったのですか?

1年生の時ですね。…あの~、時効なんですけれど、「パーマをかけちゃいけない」という校則。私、2年生の時ちょっと軽くかけちゃったんですね(笑)。
そしたら、うちの母も悪いんですけど。母が学校に呼ばれまして。サダ先生が、「パーマをかけています」と言ったら、母が頑として「いえ、うちの娘は地毛です」って言って(笑)

娘を、かばったんですね。

母はいまだに反省しています(笑)。その時サダ先生は、頑として譲らなかったと。「いいえ、かけています」と(笑)。穏やかなんですけど、引かないところはきっちり引かない。うちの母が、「サダ先生は絶対ゆずらなかった。でもわたしもゆずらなかった」って(笑)。お互いに平行線のまま。

ケンカ別れですか?

ケンカ別れではなかったんですけど。どこかで「まあまあ」という感じで終わっちゃったんでしょうね。母から、「これから直毛にはならないでね」って言われました(笑)

逆に、この形を維持していかなければ。

そうなんです。

集合写真
最前列真ん中右が小林サダ先生。左は校長の前田光子先生

行事の思い出はありますか?

私、目立ちたがり屋だったので、代議委員もずっとやってましたし。合唱コンクールの指揮も、ずっとやってました。

立候補ですか?

推薦してもらえるように持っていくんです(笑)

政治力ですね。

政治力っていうか、そういう方向にもっていくんです。みんなやりたくないですから、そもそも。仲良かった友達…今アメリカにいるんですけど。その友達が同じクラスになると、どっちかが課題曲、どっちかが自由曲みたいな。でもクラスが別の時は、「必ず私」みたいな。

では、リーダーシップを発揮した6年間だったんですね。

とにかくやりたかったんです。目立ちたがり屋なんですよ、単に。

目立ちたがり屋でも、鼻についたら支持しないですよ、みなさん。

いや~、どうなんでしょう。当時は調子に乗ってやってましたけど(笑)

当時の合唱コンクールってどんな感じでしたか?

すごかったですね。とにかく負けたくなかったので。

選んだ曲、覚えていますか?

ヴィヴァルディの「春」とか。ちょっとばかげてますよね、ずっと「ランランランラララーン」とか言っているだけの。「ずいずいずっころばし」とか、けっこう変な曲を選んでましたね。

指揮者としてクラスメイトをまとめることは大変じゃなかったですか?

私はけっこう恵まれていたので、あんまりイライラすることってなかったんですよね。比較的来てくれたと思いますね。真面目でした、みんな。そして私「5組」だったときは、理系の受験クラス。となりの4組が国立文系で。そうするとすごいライバル意識とか燃やして、4組に向かって、みんなで、「負けないぞー!!」とか。お互いに応戦みたいにして。すごい…なんであんなこと出来たんでしょうね。今では、考えられない(笑)
私は、大好きでした。合唱コン。

活躍しまくりですね。

いや~、楽しかったです。当時はレコードを作ってくれて。あんなのすごい嬉しいじゃないですか。自分たちのレコードなんて。

LP だったんですか?

LP です。うちのどっかにあるのかな。ちゃんと名前も入れてくれて。指揮者〇〇みたいな感じで。

藤を振り返って、将来役に立ったことって、なんですか?

月並みなんですけど…、よく私たち集まって言うんですけど、「一生の友達に出会えたね」っていうのはありますね。この年になって、一緒に旅行したりだとか。

アルバム2

確かに、中高時代の友人とはなかなか…。

一貫校に行っていない方は、あまりそう聞かないです。大学で知り合った友達は、「そんな付き合いはない」と言いますので。そういう友達ができたっていうのは、藤に来て本当によかったな、っていう風に思う。

小学生のみなさんにメッセージをお願いします。

女子校のよさ。やっぱり6年間一緒に過ごすことによって一生のお友達ができたっていうことが。これは公立の学校にいっていたら、いまの受験の状況もそうで、そこにみんなライバルですからね。その一点をみんな競い合うようななかで、やっている環境とちがう。もし自分が勉強以外のなにかやりたいものがあれば、そういうものにもしっかり取り組むことができる学校じゃないかなと思います。先生たちも理解がありますよね。あと、いいかどうかわからないですが、男の子の目がないので楽ちんだった(笑)。「女だから」というのがなく。自分のやりたいことを遠慮なくやれた。伸び伸びと過ごせた。あとは、女子でも進学のことを考えている、女子校ってゆるいイメージがあるかもしれないけど、藤は大学受験もしっかり考えてくださっている。一線で活躍しているお友達がいっぱいいるので。指定校推薦枠もいっぱいありますし(笑)


撮影場所:札幌どうぶつ専門学校
インタビュアー・ライター/新山 晃子
カメラ/中村 祐弘
編集/高橋 巧