映画の主人公みたいに、キャラが濃い
フリーアナウンサーとして
ラジオやTVで活躍する山本さん。
男勝りから借りてきた猫へ?
そんな彼女の中高時代を紐解きましょう…。
入学した理由を教えて下さい。
母のすすめだったんです。母自身が転勤族だったんですね。祖父が警察に勤めていて北海道内を転勤していたので、友達ができてもまた次へ次へと移動していたので寂しかったみたいで。
何度も転校することは、子どもには過酷かもしれないですね。
私には、6年間同じ校舎で、同じ先生たちの中で、同じ仲間に囲まれて、という一貫教育の学園生活を送らせたいという思いがあったみたいです。
お母さまのご希望だったのですね。ほかの一貫校は考えなかったのですか。
母のいとこが藤の卒業生だったり、母の学生時代の同級生に藤へ進学した方もいたこともあり、私に通わせたいのは藤一択だったそうです。
お母様から提案されて、山本さんはどう思いましたか。
どんな場所なのか知らなかったのですが、「とっても素敵だから」といわれ。
私は男勝りでにぎやかな子どもだったのに、世間では「藤はお嬢さましか行けない学校」だと言われていたので、「私が~?」という感じでした。
そんな伝説の時代もありましたね(笑)
母が私を口説き落とすのに「上級生はお姉様と呼んで、すれ違うときは『ごきげんよう』ってあいさつするんだって。なんだかすてきじゃない?」と。ちょっと、大げさに言ったんだと思います(笑)。でも、それで「そっか~、カッコ良さそうだな」。私の中では宝塚少女歌劇団みたいな世界なのかと。バレエを習っていましたし、劇団四季も好きでよく観に行っていたので、規律と礼節在りき、みたいな世界観は嫌いじゃなかったんです。「ちょっとチャレンジしようかな」と、受験にチャレンジしました。
実際に入学してみて、「宝塚イメージ」はいかがでしたか?
いや、もう、全く違いました(笑)。ただ厳しさというのは、想像通りでした。
最初はオールバックのポニーテールで、カチンコチンで通ってました。
特に厳しいと感じたのはどんなことでしたか?
粛々とした学校の雰囲気が。一歩中に入れば空気が澄んでいるというか。今でも大好きな風景なのですが、校舎が木造で、歩くとミシミシいう廊下で。
もしかして、タマネギ塔の時代ですか?
そうですそうです。一番大切な私の原風景です。冬になるとボイラーがカンカンいって。
「開拓の村」にありそうな建物でしたね。おしゃれな和洋折衷の。
冬の匂いっていうんですか。朝に冷たい空気がボイラーでふんわり温まっていく匂いが好きでした。お昼前には、鉄むき出しのボイラーの上でみんながお弁当を温めたり。ですから、私が卒業する頃に校舎が建て替わっていったのは本当に寂しかったですね。当時の校舎は、歴史が生んだ独特の雰囲気だったので。
入学した時っていうのは「なんだこの建物は…!」みたいな。そこに出入りするだけで歴史の重みというか、厚みを感じていました。学校の中に普通にシスターが歩いていらっしゃるというのも。
1学年1シスターがいた時代ですね。
そうですそうです。そういう雰囲気もすべて新鮮に映って、厳しいというよりはその雰囲気に圧されて、「ちゃんとしなきゃ」みたいな。借りてきたネコ状態でしたね(笑)
あとはもう「お祈り」ですよね。事あるごとに「お祈り」をするじゃないですか。それも初めての経験だったので、最初はソワソワ緊張して過ごしていました。
お友達はすぐにできましたか?
割と私、初対面の方ともざっくばらんに話すほうだった…のですが、そういう雰囲気の中だったので最初は自分を出せなかったという記憶があります。
いつごろ自分を出せるようになりましたか。
数カ月したら、自分も周りもだんだん殻が取れるようになって、ワイワイやるようになりました。
今でも連絡を取るような方にはいつごろ出会えましたか?
高校1年生の時くらいに出会った友達とは、今でも何気無い事で頻繁に連絡を取り合っています。
先生方とのエピソードがあれば教えてください。
趣味は映画を観ることなのですが、映画を観るたびに思うのは藤の先生たちって本当に一人一人が映画の主人公みたいにキャラが濃いんです。兼八先生、小山内先生、山内先生、菊地先生、萬谷先生、菅野先生…。教師というよりも、その方そのもので生きてらっしゃる姿を見せていただいたという気がします。
特に印象に残っているエピソードを教えてください。
いや~~~、みなさん本当に濃いので毎時間がまるで短編小説です(笑)。厳しい先生が多かった印象ですが、その中でも塚田先生は本当にお優しくて癒し担当というお人柄でした。「じゅんじゅん聞いて!〇〇なんだよ?」とどうでもいい事をいっても「えー!本当?すごいねぇ!」なんてニコニコして言ってくださる方で。じゅんじゅんて…!反省しています。
あとは、日本史の兼八先生。日本史は兼八先生のおかげで大好きになったのですが、勉強以外のお話もとっても面白くて。授業中に、おきまりのまったりとした口調で「お前らなぁ、今、ここで何か災害があったとするよなぁ。その時生き残りたいと思ったら、俺について来いぃ」というんですよ。
えっ?
「俺は、絶対に死なない自信がある。家で愛犬のやじろベェが待っている。生き残りたいと思ったら俺についてこればいい。その代わり、俺は一切守らないし、声もかけないけど、俺についてこれば生き残れる、と思えー。」でも、それを聞いた私達は何かあったら兼八先生にしっかりついて行こうと思ったんです(笑)。
萬谷先生というヨーロッパ貴族のような雰囲気の先生は古文の先生で、冷静沈着、でもキュートな方でした。私たちを子どもとして扱わないんですよね。生徒を「ひとりの女性」として見ていて、女としての生き方をその授業の端々の言葉や雰囲気から学ばせてくださいました。子どもとしてではなく、常に女性として接して下さる先生で。知性ある女性は出る所とわきまえるところを知るべき、という言葉は当時とても印象的でした。
部活には参加しなかったようですが、なにか習い事はやっていたのですか?
クラシックバレエを3歳から 14 歳くらいまで習っていました。勉強との両立が難しくなったタイミングでやめてしまいましたが、今でもバレエ鑑賞は大好きで、ストレッチを欠かさずしたり家の中で跳んだり跳ねたりしています(笑)
藤は、バレエを習っている生徒が多いですね。
私の友人でもお母様がバレエ教室を開いている子がいて、現在はプロのバレエダンサーですし、社交ダンスをしていた友人は体のしくみを深く勉強して、整体師のかたわらダンスをしていました。乗馬を愛していた友人はお父様の会社を継ぎながらも乗馬の大きな大会に出場したり…当時やってたことを続けている人って、多いと思います。かっこいいですよね、自慢の友人です。
ところで、山本さんの時代は、昼食中に一言もしゃべらない時代でしたか?
そうですそうです!シーンとしていて、みんなが食べているお弁当箱にそれぞれのお箸やフォークが当たる音が聞こえたくらいでした。入学当時、食前のお祈りをして、そのあとシーンとした中で食べるっていう。「藤スタイル」をガーンと目の当たりにした瞬間でしたね。
小学生のときって、机くっつけて食べますもんね。
「(みんなで)いーただーきます!」から「父と子と聖霊の…」に(笑)。そして、印象深いのが、金色の大きなやかんが…。
今もそうです。
本当ですか?!
食前・食後のお祈りもやりますし。近年は「ちょっとしゃべっていい」という雰囲気だったんですが、今年度は感染症対策なので「シーン」が復活しています。それこそ、「藤スタイル」が時代に当てはまってしまいました。そして、今年度はやかんが NG なんです。
みんながひとつのやかんから大切そうにお湯をマグカップに入れる景色が思い出に残っています。教室が温かなスープの香りでいっぱいになる。あと、お腹が痛くて保健室に行ったら向野先生達が空き容器に熱湯を入れてくださって、それを巾着袋にいれて湯たんぽ代わりにしてくださるんですよ。
今は、湯たんぽの正式な容器ですよ。
それもありましたが数が足りなくて。先輩が使うので、下級生は空き容器。抱きかかえると不思議と柔らかくて、ほっとするんですよね。お腹にあてて、ソファに座って。保健室は、悩みのある子なんかが癒されに行く場所でもありました。ちょっとしたホッとできる場所です。保健室の先生お2人は百戦錬磨なので、生徒が本当にお腹がいたくて来ているのか、ちょっと精神的につらくて来ているのかわかっていたと思います。個々を察して「教室に帰りなさい」とは言わないんですよ。藤っ子にとってのオアシス的な場所でしたね。
進路について伺いたいのですが、いつ、「大学も藤に」と思ったんですか?
実は、入学した時…。
えっ、そんなに早く?
「これから学園生活がはじまるね。ちなみに藤は大学もあるんだよ」と母が。
「 10 年間藤っていうの、なんだかかっこいいよねー!」だなんて話していました。母はそんなに重たい気持ちで言ってはいなかったと思うのですが、私は「藤女子大学ってすごいんだろうなぁ」と漠然と思っていました。私は子どもの時からものすごく色々な事に興味を持つタイプだったので、進路を決める高校生になった時にも「これだ」という確かな将来の夢がある訳ではありませんでした。将来の展望があればそちらに向かって歩いていけたのですが、まだ見ぬ社会の色々な可能性を知りたいなという状態で高校生になっちゃったわけです。
周りの友人みたいに「医者になりたい!」とか、「こういう研究をしていきたい」というのがない事が、私の弱みだったんですよね。で、まず文系に進もうと決めて。
それはなぜだったんでしょう?
英語が好きだったんです。現文や日本史も。自然に文系の道へと進みました。
道外は考えなかったのですか?
やっぱり北海道が好きだったんですね。家族のみえるところにいたいというのもありました。でももし私に「こうなりたい!」という夢があったら、それはまた道が違ったかもしれませんね。道外へいく根拠がない状態で家を出ようとは思いませんでした。
英語が好きだったのに、英文科へ行かなかったのはなぜだったのでしょう?
進路を決める時、担任の先生と相談するじゃないですか。その時「英文を考えているのですが」といったら、当然のように「日文でしょう?あなたは、日本文学よ」って担任の菅野先生が仰ったんです。その方も映画の主人公のような、樹木希林さんみたいな雰囲気の先生でした。とにかくどの瞬間を思い出すにつけ、先生方はみんなマイペースなんですよ。とても好きでした、その雰囲気が。先生達がマイペースであったからこそ、生徒に甘えがなくなるんですよね。おかげでマイペースな我々に育ったのかもしれません。で、先生にそう言われた時に「ああ、そうか」と思って日本文学にしたんです。
その言葉が、すとんと落ちたんですね。
そうなんですよ。でもその「日本文学科」の大学入試面接の時に「最近読んだ本を教えてください」と言われ、とっさに直近に読んでいた「ハリー・ポッターを読みました」って言ってしまったんです。その時の凍った空気を今でも忘れられません。面接官としてシスターがいらっしゃったのですが、真顔になってしまって、ややしばらくシーン。「あ、これは落ちましたね」と思いましたが、失言を取り返すべく熱弁した記憶があります(笑)
では、小学生の皆さんへメッセージをお願いいたします。
皆さんはいま、どんなことが好きですか?どんな人になりたいですか?小学校を卒業したらどんな学校生活になるんだろう、とワクワクしますよね。藤は、同じ校舎で、同じ先生やお友達と、6 年間というまとまった時間を過ごすことができる特別な学校です。いま好きなことがある方は、落ち着いてそれに向き合うことができたり、こんな人になりたいなと思っている方はそれに向かってあせらずに過ごせる環境があります。私の場合は6年間でいろんなものを見て聞いて、じっくり自分探しをすることができました。それに何と言っても、生涯つながっていけるお友達ができます。皆さんが一歩大人になる分、小学校の時に過ごした6年間よりもたくさんのことを感じながら過ごす年月ですから、自然と絆も深まります。女の子だけの空間で、女の子ならではの学びができたのも本当によかったと思っています。藤を卒業する頃には、今のあなたに「女性にとって大切なこと」が身についていることをお約束します!
撮影場所:STV 札幌テレビ放送会館
インタビュアー・ライター/新山 晃子
カメラ/中村 祐弘
編集/高橋 巧