お正月といえば「寅さん」と「釣りバカ日誌」
確かな将来の夢がないまま、
藤女子大学へ進学を決めた山本さん。
彼女が就職活動のすえに見つけた
「将来の志望」とは…?
大学も「藤」を選びましたが、入ってみていかがでしたか?
大学はまた中高とは全く違う世界だったので驚きの毎日でしたね。
「違い」とは?
藤の中高って、古い校舎に流れる穏やかな時間の中で、独特の世界観が融合しているような場所でした。大学もそれと似た空気感を想像していたのですが、大学となると色々な高校から女子が集まってくるわけですよね。それはもうバラエティーに富んだ…藤の中高の「個性」とは違った個性が集まってきていて、時間の流れにも雰囲気にも、少し大袈裟に言うと激流のような勢いを感じました。6年間毎日通った場所なのに、大学の門をくぐった瞬間に自分のテリトリーじゃないところに来た感覚があったんですよね。
いつごろ、大学の雰囲気になれましたか?
通い慣れた場所だったおかげで、それはあっという間でした。偶然同じ科に藤中高で一緒だった子がいたのですが、これがまたさすが同郷といった感じで中高ではあまり接点がなかったにも関わらず気があったんですよね。新しいお友達も出来ましたが、その子とは4年間切磋琢磨して過ごしました。
部活やサークルは、入らなかったんですか?
北海学園大学へ通っていた兄がいまして、その兄が入っていた学園大学の音楽サークルへ飛び込んでみました。子どもの時から兄の友人が家に来ると一緒にくっついて遊んでもらっていたので、兄の大学時代の後輩の方達もよく私のことを知っていてくださったんです。私も兄達の楽しそうな姿を見て、大学生活に憧れていたものです。大学同士の距離が遠いのでそんなに長くは続けられませんでしたが、共学という世界に触れた貴重な機会でした(笑)
ちなみに、担任の先生の見立て、「日本文学」は自分に合っていましたか?
それが…すごく合っていたんですよね。日文の講義の幅というのが、とても広く深くて。大学の勉強は教科書になぞらえるのではなく、研究者としての先生方の思想に触れるみたいな所がありますよね。文学史、言語学、歌舞伎、仏教、外国語…、どれも本当に血肉になる学びでした。大学の先生方に、忘れられない言葉をいっぱいもらいましたね。
たとえばどんな言葉でしょう?
例えば青木先生は、近松門左衛門などがご専門の方でした。「今の時代色んな事を知りたいって人ばかりですがね、幅広い事を浅く何個も掘るよりも、一つのことを深く深く掘り込むことはずっと難しくてすげぇことです。職人なんかそうでしょ。深く掘り続けた人の深さには、後からどうやったって追いつけない。私なんかはとても敵わない。偉いなぁって、思いますよ」って、日本文学の職人みたいな生き方をして来た人がそう言うんです。色々考えさせられることが多くって。
日本文学って、日本人になじみやすい世界観だと思うんですね。中高でキリスト教を学びましたが、キリスト教って信じられないことがいっぱい起こったり、たとえ話が多かったり…当時はよくわからなかったんです。その感覚を持って大学へ行った時に、仏教がすごく面白かったんですよね。日本文学、というと仏教は避けて通れませんよね。キリスト教をやっていたからこそ、「仏教の人間くささ」が愛おしくて、かなり掘り下げた時期もあったんですよね。あの…私、すごい感動屋なんです。
うらやましいです。
人間って意識せずとも「毎日小さな感動で動いている」って思うくらいです。
父が楽しいことが大好きな、感情の豊かな人だったので、そういう血をひいたのか私は感動屋で、すぐ胸が熱くなるんですよね。この年になるとやっとキリスト教が言っていたことが見えてきたりして、中高生の多感な時期に何気なく学んでたことは頭の片隅に残っているんだなぁと感じます。
それぞれのタイミングで、理解の時期がおとずれますもんね。
そうですね。当時「ふーん」だった事をふっと思い出して、それが突破口になったり。例えば当時はキリスト教のいう「愛」を物語の上でなぞる事しか出来ませんでしたが、今の仕事や日常の中で死と向き合ったりした時には、「愛だよな」だなんて、すっとおちました。人ってその時はわからないけれど、振り返ったら「ああいうことだったんだ」っていうことが往々にしてありますよね。だからこそ、わけがわからなくてもなんでも、子供から大人になる時の教育って大事だなって改めて思っています。中学生の時とかにどういう環境にいるのかって、重要なんだなって。
子どもの時って、「これに何の意味があるんですか?」と聞いてしまいます。
とりあえず何もわからなくてもまじめにやっていたら、あとから気付く事多し、と言う感じですよね。
お話をきくと、山本さんは大学で勉強をかなりがんばられてたんですね。
ただ、向き不向きはすごく感じたんですよね。「環境科学」みたいのとかってすごく苦手で。私、人情というものに滅法弱いんです。子どもの時は、お正月といえば「寅さん」と「釣りバカ日誌」。今でも「始まってたったの15分間で、思わず笑えて泣けるなんて映画は寅さんしかない」と思うくらいです。(笑)
これを観て育ったので、歌も昭和の歌が大好きですね。そこで、文学の道なんですよね。言葉の力をすごく感じて。子供心に、言葉で人の心が動く、感情にドンとくる…ってすごいな、一言で泣けるなんてすごいじゃないか!みたいな。
卒論のテーマは?
私、和歌が好きで。西行にしたんですよね。西行の死生観、弱さ、人間臭いところが好きでした。やっぱり死と向き合うと、生きることが見えてくるじゃないですか。仏教の勉強をしたときに、死に対しての圧倒的な恐怖が色々なお経を生んだりだとか、人間を開眼させたりだとかのある種単純さが意外で、引き込まれたと言うのはありますね。人間って弱い生き物だけれど、死と向き合う事が生きることに強さと輝きをあたえる。人間が考えたことって、面白いなって。キリスト教の「煉獄」、まさに今我々が生きているここのことだなと高校生の時に思いましたし、仏教の色々な経典は命をかけた修行の末に導いた唯一の答えばかりなはずなのに、それぞれが「こっちがだめならあっちだ」「これはここに穴があるから新しいお経です」みたいなのって、とても人間らしいなと。ですからそういう紐解きがなされる大学の講義がすごく楽しかったです。「サルから人間になった瞬間は、サルが言葉を持った時だ」と菅本先生がおっしゃったり。勉強はすごく大変でしたが。
就職活動について、教えてください。
精力的に頑張りました。大学は単位を取らないと卒業できないということが私には強烈で、就活する頃には何の不安もないようにと入学当時からスタートダッシュで単位を取っていました。大学の場合は自由に講義を選択して組み立てていくので、うっかり単位が足りなくて卒業できないというのが怖くて、気がつくと3年生までに必要単位数は取っていました。
「人間臭さが好き」ということが、営業職へ向かわせたんでしょうか?
そうかもしれません。その時は、今ほど女性が社会で活躍している時代じゃなかったので、周りは「事務職がいいな」とか「CAに」など、女性ならではと言われていたものを志望してましたしそれが当たり前でした。私ももちろんその気持ちもあったものの、就職活動では説明会へ行きまくりました。「これになりたい」という確固とした夢がない以上、すべてを見ないと気が済まなかったからです。大学も就職活動を応援してくださる体制が整っていました。
藤大のキャリアサポートがよかったんですね。
ええ。で、とにかく毎日説明会にいきまくって、色んな業界の勉強をして。そんな中で「かっこいいな」って思う職業も沢山ありましたが、やっぱり決め手は「人」だったんですね。出会ったのは、藤女子大学へ説明にきてくださったお2人。トヨタカローラ札幌の方でした。その時ちょうど私、車の運転が好きで、ドライブが趣味だったんですよ。乗ったらドアto ドアで違う世界にいける車は私の相棒でした。
免許を取った20 歳くらいからは、母や愛犬を連れ立って本当に色々なところへ行きました。「こんなすぐに北海道中の景色を見にいける車って最高だ」と思っていて。そういう気持ちでトヨタカローラ札幌の説明を聞いてたんですが、車の事を忘れてしまうほど担当者が味のある熱い方で。担当者との雑談で、車ではなく高校野球の話をしたところで、意気投合しまして。過去の試合で、あるピッチャーが一人で最後まで投げ切った試合があったのですが、試合終了後にグローブを取ったら手が血だらけだったんですよ。解説者も誰もかれもが驚いて、胸を撃ち抜かれた試合でしたね。それを感極まりながら話す私のような学生相手に、一緒に目頭を熱くして語り合って下さった事でカローラ社に興味を持ちました。
なぜ「営業職」を希望したのでしょう?
若い時の苦労ってしたほうがいいというのは通説ですけれど、やっぱりちゃんと頭を下げられる人間になりたいと思っていたので、営業職希望でした。父も自分で会社をしていた人だったので、父や母の背中も見ながら。友人で営業職に行きたいと言っていたのは私くらいでしたね。
無事に、希望したトヨタカローラに就職できたわけですね。
内定は、本当に早かったです。ただ、母にはかなり心配されました。母は営業職の大変さを分かっていたので、違うところも見てみて良いんじゃないかとアドバイスをくれましたが、私自身、就職活動は内定を頂いてから更に他のところからも内定を、というのは嫌だったんですね。本命の他にいくつか、というのは当たり前なのかも知れませんが、自分が内定をもらったことで落ちる人がいると思うと、とてもそんな事できなかったんです。なので、トヨタカローラ札幌から内定を頂いた時点で、すべての就職活動をきっぱりやめました。
では、あとは卒論だけ。4年生の時はどのように過ごしたんですか?
失敗したなと思ったのが、みんなそういう時に思いのままに何かに打ち込んだり、卒業旅行などで家族、友人と遠くへ、海外なんかに行きますよね。
私は当時遠くへ行く気が全く無く、卒業時には、みかねた母が洞爺湖の一泊母娘バス旅行へと連れ出してくれました(笑)
ドライブは?
しましたしました!それはもうここぞとばかりに。就職をしたらこれからの人生はずっと働き続けることになるんだと、どこか学生時代の時間の使い方と決別、決心をするじゃないですか。よし、ならば24 時間いろんな使い方をしてみよう、と夜中から車に乗り込んで朝日を見に行ったり、漁港へ行って水揚げされたばかりの魚介を買ったり。いわゆる若者っぽい過ごし方をしなかったことには「良かったのか…?」といまだにちょっと思いますけれど。でもそれがまた就職してから活きたので結果オーライです。車にまつわる会話に色々な引き出しが出来ました。
就職して、営業職はいかがでしたか?
大変でしたね。営業職に限らず新入社員はみんな大変ですから、勉強の日々といった感じは他の方々と一緒だったと思います。ただ女性という意味では、会社として「これからは女の子をどんどん採用していくべきだ」という時代だったんです。私の配属先はカローラ札幌創業40 周年だった当時、40 年間一度も女性社員が所属したことのない店舗で、ベテランスタッフが集まる昔ながらの店舗でした。私は昭和好きの、父親っ子だったっていうのもあって、大好きな雰囲気でした。私はとにかくまっすぐ邁進という感じで、元気に「いきます!」「やります!」。
男性と変わらない、ということをアピールした?
いいえ、男社会に入ったということで、往々にして「男性に負けてはいけない」って思う方もいらっしゃると思うんです。でも私の考えは、女性には女性としての立ち位置がある…じゃないですけれど。社会の中で男と女っていうのは必ず棲み分けが必要だと思ったんですね。男性と同じことをするんじゃなくて、男性にはできない女性ならではのことがあるはずと。なので無理をせずに自分らしくいられたような気がします。どうしても折に触れて同期で競わされたりもしましたが、不思議とそこで負けたことはなかったんですよね。
「売りたい」ではなく、「お客様が喜ぶ提案がしたい」と思ったからじゃないですか。
やっぱり、心と人情、のサガで(笑)
自分には負けたくない、というだけだったんです。男の子みたいに外で営業回りができないですから、自分のできるせめてものことを精一杯していました。
他の店舗は女性も外回りしていたのですが、私の店舗は古き良き時代の店舗だったので。「じゃあ、ここで勝負をしよう」と。私のお店は、常時 60 台くらいの中古車が並ぶ大きな店でした。沢山の他社をまわってきたお客様に接客する、ショールームレディ的な役割だったんです。「絶対、うちで止める」という気持ちで、誠心誠意向かっていました。でも「売りたい」というよりは「この人どんな人なんだろう」と、人として接する仕事の仕方をしていたので、すごく楽しかったですね。
お客様じゃなくて、ひとりの人間に喜んでもらいたい。萬谷先生が生徒ではなくひとりの女性として接したように。
ああ、そうです。萬谷先生の「女性は出るところとわきまえるところがある」という教え、本当にそうだと思ったんですね。私は子ども時代、学習発表会で主役に立候補したり、なにかにつけて前に出るような目立ちたがり屋だったのですが、そうじゃないということを教えてくださった言葉は、強く残りました。
カローラでは何年くらい働いたんですか?
3~4年くらいです。仕事はすごく楽しかったのですが家庭の事情で。辞めると言った時、みなさん引き留めてくださったのが本当に嬉しかったです。営業職もしつつ本社で入社面接などの人事もお手伝いさせて頂いていたのもあって「辞めるのではなく、本社に来て本部系の仕事をして欲しい」と言っていただいた時には胸がいっぱいになりました。と同時に、大学時代にこの会社を信じたのは間違いではなかったと、思わせていただきました。社会人としての楽しさと、責任があることのありがたさを学びました。
では、小学生のお嬢様がいらっしゃる保護者の方へメッセージをお願いいたします。
今改めて藤女子とは…と思いを馳せた時、やはり一番は女性であることの意義を子供ながらに考えさせていただける場所だったなと思います。女性の在り方が社会で多様になっている今、どういった環境で学生時代を過ごさせてあげるのかという事は大きな選択になっていると思いますが、藤は学習面だけではなく精神的な面、感性的な部分でもおおらかに子ども達を包んでくれる土壌があると思います。多種多様な子ども達の色をそのまま広げられるキャンバスのような、落ち着いた環境の6年間があります。友人たちをみていて今思うのは、中高生で優しさや思いやりがしっかり根づくと、ぶれない強い女性になれるという事です。どもから大人になる大切な時期の様子を、一緒に見守ってくれるのが藤だと思います。
撮影場所:STV 札幌テレビ放送会館
インタビュアー・ライター/新山 晃子
カメラ/中村 祐弘
編集/高橋 巧