物事って必ず2つの面がある。
ならばとことん良い面を見つけてみよう
カローラを退社後、
STVラジオの移動中継車
「ランラン号」のキャスタードライバーになった山本さん。
ラジオやテレビの世界について、お話をうかがいます…。
ランラン号は、カローラさんですすめられたと聞いたのですが…。
カローラって、先輩方の営業周り中の車中や店舗の工場の傍らに、いつもSTVラジオが流れてたんです。私が社を離れた後に、諸先輩方がランラン号募集の告知放送を耳にして「お前、受けてみろ」って言ってくれたんですよね。それで挑戦してみました。
2人しか受からないんですよね。
そうなんです。当時は「2人、2年」というくくりでした。
もう一人は、どんな方だったんですか?
今でもとても仲が良い4歳年下の子で、一言で言うと私とは真逆の子でした。
もともとバスガイドの仕事をしていて、しゃべりがとっても上手だったんです。一方私は、正しい言葉の表現を知らないですし、マイクを持つのはカラオケの時くらいなものでした。しゃべりの基本ができている子と一切ない私。また、社会での女性の上下関係に疎い私でしたが、同期はバスガイド業で女性同士の上下関係やきびしさ、礼儀をしっかり学んできていました。そして彼女は運転が苦手で、私は得意、と言う真逆っぷり。
山本さんは、ドライビングはばっちりですから。
安全運転は得意だったのですが、しゃべりはド素人だったので、大変でした。
セイコーマートさんがスポンサーの、ラジオ番組収録を見学させていただきましたが、しゃべりはばっちりでした。
恐縮です!
ランラン号に入ることになり、その2年間はいかがでしたか?
最高に濃い時間でした。道ゆく人々、あらゆる会社の方々、著名人の方とも接しますし、あらゆることを自分の言葉と全力の感性で伝えるお仕事です。音だけの世界でどんな風にすれば「伝わる表現」ができるのだろうかと、試行錯誤でした。
ランラン号になってまず初めに、STV 女子アナウンサーの方がお仕事の糧になるようにといろはを教えてくださるアナウンサー研修というのがありました。谷口祐子アナウンサーに開口一番「ランラン号っていうのは、街の風景を伝える仕事だよね?と言うことで、今朝ここまで来る間に見たものを自由に3分間で話してみてください」って言われたんですよね。ハッとしました。思ったより、見ていない。で、作った文章が、「天気がよくて…」とか、小学生みたいな文章で。そこからが始まりです。
日々の視点を変えるところからはじまるのですね。
入ってからは、マイクを持つ手を緊張で震わせながら、勉強の毎日でした。中継はランラン号2人だけで回るので、中継時に使う機材の扱い方も学んで、盛りだくさんでしたね。ラジオの向こうで聞いてくださっている方を想像しては、一つ一つの言葉の意味や重みを考えて…声も上ずります。
ランラン号のお仕事内容、具体的に教えて下さい。
ランラン号は、決められた中継時間目指して、真っ白な状態から街を走って放送の種を探します。季節、人、風景から、その時に合った「これだ!」と言うものを見つけて取材をさせていただいて、スタジオのディレクターに相談する、OK が出たら原稿を書いてディレクターにネタ送り、再び OK が出て初めてオンエアと言うのが基本的な流れです。
中継は、OK の原稿が出来たあとということ?
そうです。「その話じゃなくて違うのを探して」と言われたらまた走り出します。
だけど中継時間は待ってくれませんから、それまでに仕上げます。
原稿ができなかったらランラン号の出番はないんですか?
あるんです。どんなに時間がなくても、とにかく諦めずに探して、ディレクターに相談の電話をかけ続けます。放送に穴を開けたりスタジオに時間調整で迷惑をかけるわけにはいかないと、泣きながら探したりっていうこともありました(笑)。でもそうやって毎日毎日朝番と午後番をする中で、その時にしか会えなかったであろう人達と、色とりどりの人生にたくさん出会えました。
朝番もあったんですね。
朝っていうのは6時にランラン号で街へ出て、出勤途中の方にインタビューをしたりアンケートをとったりリクエスト曲をもらったり。
急いでいるから、断られるのでは?
多かったです。でもラジオは顔が映らないので、照れ屋さんでも結構ご協力くださいました。そして朝早くから何かをやっている人を発見してお話を聞くと大抵面白い!(笑)日中の中継にはない魅力でした。
アポなしでネタ探しの毎日、しかも「リミット付」…大変そうです!
何もないところから中継に値する原稿を来る日も来る日も作るのは確かに大変でしたが、必ず出来るようになるという信念が背中を押してくれました。「ここまでしか登れなかった。ここでつまずいて転んでしまった。って言って途中で下山しても、次に登る時、そこは必ず登れるんです」。登山が好きな方で、大学の時の青木先生の言葉です。ですからとにかくやりました。そしてせっかくやるんだから、と楽しんでやりました。
その後、ラジオ放送の世界ではどんな学びを?
色々なディレクターさんに教えていただいた中に「聴いてくださっている方に、いかに少ない言葉で画を浮かばせることができるか」ということがありました。
「お前はしゃべりすぎる」ってことだったと思うんですけれど(笑)。言葉数が多かった私に「いっぱいしゃべればいいってもんじゃないんだ」と。なにかひとつ、天気や味や、出来事を伝える時にどれだけ伝わるかっていうのは言葉の数じゃないよということを教えられ、それからは一層ラジオの魅力を感じられるようになりました。
音だけなので、どうしてもたくさん喋らなきゃ伝わらない気がしますが。
伝えるために大切なのは、いかに多くの言葉を知っているかじゃなくて、深い感性を持つことなんだと気付きました。小さなお子さんからご年配の方、皆さんにわかって頂ける言葉じゃないと意味がないですよね。知っている単語や気の利いた表現を増やすよりも、まずは手の中にある言葉達を使って表現する技を磨く。声に気持ちを乗せられるように努めました。今自分がするべきなのは心を磨くことなんだって気づいたんですよね。その途端に、街で出会う人、景色の見え方、捉え方が変わってきました。
失敗はありましたか?
もちろんです。朝の番組「オハヨー!ほっかいどう」の中継で、あと5秒という時に締めの言葉を噛んで、とっ散らかったことがあったのですが、落ち込んで社に戻ると、スタジオでメインパーソナリティだった喜瀬ひろしさんが「ディレクターには叱られたかもしれないけれど、僕はとっても面白かったよ。僕思うにランラン号は面白くなきゃ。正しいこと言おうとしなくていいよ。スタジオでちゃんと受け取るから」と言ってくださって。忘れられません。ランラン号しか出来ないことに気付くきっかけを下さいました。失敗は辛いですが、「糧」でもありました。
「そろそろ自分でもできるぞ」というのはいつごろでしたか?
未だにできていないです。生き物なんですね、ラジオって。あとから考えたら「あの話すればよかった」「こう言えばよかった」って思うことが今でもたくさんあります。あと、新人の頃に気を付けなきゃいけないなって強く思ったことのひとつに、何かを紹介する時に「○○よりもこっちがいいですよね」のような表現をしないことです。当時番組ディレクターだった女性が「ラジオの基本は、『誰も悪者にしないこと』」だと教えてくださいました。
比較して優劣をつけることは避けるべきことなんですね。
「悪者をつくらない」…確かに!って。毎日街中をリポートしながら出会うリスナーさんの姿が私の目の前にパーっと浮かんだんですよね。そうしたら言葉選びが難しくなったときがあって。「こういったら、誰かが傷つくかもしれない」という迷いが。そういった中で、待てよと。物事って必ず2つの面があって、悪い面があってもその裏は良い面です。ならばとことん良い面を見つけてみよう、って思うようになったんですね。それからがまた楽しくなりました。インタビューした方が「私こんな失敗を…」と仰っても、プラス面を持ち出して会話ができるように練習しました。
プラスに変換する切り替えを習得し…。「悪者をつくらない」という言葉が、山本さんにとってひとつの突破口になったんですね。
「良いこと探し」です。これは私が幼少期、母によく「良いことを見つけるのを癖にしなさいね」と言われていて、それが仕事にぴったりはまりました。「良いこと探し」は得意というか、積み重ねてきたことです。そのおかげで楽しい発見ができますし、色々なことを好きになれます。聴いてくださる方にも現場のいい空気が伝わってくれると思うんです。
ランラン号を2年間で終えた後、「次の道」は用意されているんですか?
いいえ、そういったものはありません。なので放送の仕事を続けていきたい気持ちでいっぱいでしたが、卒業が近づいた時には就職活動をしなければ、と思っていたんです。それこそ色々な企業にも中継に行かせていただいていたので、「次はどんなことをしようか」と思っていた時に、STVラジオの当時の営業部長にお声掛けいただいて、「『どさんこワイド』出てみないか」って。それで、今のような形になりました。
テレビの世界にも活動の場が広がりましたが、新たに学んだ手法はありますか?
両者はまったく違う世界だったんですね。伝え方が違う。例えばラジオは5秒間空白があったら「放送事故」です。でもテレビはその逆、というのが印象的でした。間が、とっても大切なのだと教えていただいたところからのスタートです。
言葉じゃなくて、ビジュアルで伝える時間が必要なんですね。
そうです。まずはテレビの前の方に見ていただく映像や音声が第一で、余計な言葉は要らないんですよね。音が全てのラジオでは、声のトーン、息遣いなんかにも気を付けつつ、聴き心地の良いリズムの良さを追求していました。一方のテレビでは、映像と音声の動きに合わせるのが基本中の基本です。映像がより伝わるように言葉の精度を上げたり、立ち振る舞いも気を付けました。また、見たらわかるよ、というような言葉を排除することを意識したり。
そして、自分の姿が画面上に映るという変化もありますね。
そうですね、映像のための役割です。ご紹介するモノ、コト、ヒトをどんな動きならより伝える事ができるだろうかと考えました。身だしなみを整えることは大切でしたが、被写体としてはやっぱり観てくださっている方に、ちょっとでも笑ってほしかったんですよね。楽しい気持ちになってほしかった。だから、可愛らしく・おしゃれに、ではなく、体当たりリポート派でした(笑)。ラジオの時から信条にしているのは、例えばとても落ちこんでる方が、私のラジオを聴いて、テレビ画面を見て、ふっと笑ってくれたりだとか、「いつかここに行ってみよう」とか、そういうことを感じて頂けるように毎回全力でやると言う事です。
ラジオやテレビを通して、見て、あるいは聞いて「よかったな」と思ってもらいたい一心なんですね。
色々な気持ちで見て、聞いてくださっている中で、もしかしたら不意に亡くなる直前に最期に見る姿や聴く声が偶然私かもしれない。そういう方に対して、どの瞬間も中途半端な気持ちで向かうわけにはいかないと思って。大げさかもしれませんが、そのくらいの気持ちがあります。
仕事に対して、すごく誠実です。
この仕事が大好きですし、できることが本当にありがたいです。ラジオを始めるきっかけのひとつに、父の存在がありました。父とは離れて暮らしていたのですが、父はテレビ業界も好きでしたし、仕事の移動中に聴くのは石原裕次郎さんのカセットかSTV ラジオ、と言う人で(笑)。「仕事中、お父さんに聴いてもらえるかな」と思って。
いい話です。
その気持ちは結構大きかったです。ランラン号だったらお父さんに声が届くかもしれない、家にラジオをつけていけば留守番をしている犬も寂しくないかもしれない、と思ったんですよね。家族に自分の働いている姿を画面やラジオから見てもらえる、というのはこの仕事の魅力だと思います。
実際に、お父様の反応はいかがでしたか?
嬉しそうでした。仕事の合間に電話がかかってきて「次の中継は何時だ?」なんて。
わんちゃんはどうでしたか?飼い主の声、わかりましたか?
母曰く、私の声が流れたらラジオの前に行ってスピーカーをクンクン嗅いだり、ラジオの前に行って丸くなって寝たりしていて、わかったみたいですね。ランラン号の時に16 歳で亡くなってしまったのですが、とても賢く素直な子でした。そして今一緒にいるやんちゃな愛犬は、放送の私に全く気付いてくれません(笑)
お仕事を通して、一番うれしかったエピソードを教えてください。
一番嬉しいことは…毎日ありました(笑)!人と出会って話を伺っていると嬉しい発見だらけなんですよね。
印象的だった方はどんな方ですか?
たくさんいすぎて!まだ夜明け前の寒い早朝、大学生の息子さんの学費のためにビルの清掃をなさっていた小柄な女性は、大変だけれど遠くの息子さんから来た一本の感謝の電話が嬉しくて、もうなんでも出来ると目を輝かせながら仰っていました。
全身銀色のトレーニングウェアを着て真っ赤な帽子を被り意気揚々と走っていたおじいさんは、「これからあの山の上にある中学校の卒業式に招待されて、行くんだ」と。地域で子供達の成長を見守って来た名物的な方で、愛されるみんなのおじいさんでした。
夜中から漁船に乗って漁へ行く方々を道内各地で取材させて頂いていた時は、海の上では強い男性達が浜の奥さんのところへ帰ると子どものような笑顔を見せていました。漁師といえば大樹町の漁師の奥さまが居酒屋をやっていらして、娘さんが藤卒だと仰った瞬間に昔からの知り合いのような気持ちになったり(笑)
嬉しかったことというのはつまり、人々と交流するなかで、藤の先生方が短編映画の主人公だったように、一人ひとり人間には人生の厚みがあって、彼らのエピソードを聞かせてもらえたこと、ということでしょうか。
そうです。ランラン号で言うと、ラジオのブースの中にいるパーソナリティーさんは、どんな人が、どんな風に聴いてくれているのかは見えないのですが、私たちだけなんですよね、リスナーさんたちと直接会えるのは。リスナーさん達がいかに楽しみに聴いてくださっているか、いかにパーソナリティーのことを近しく感じてくださっているか。そういうことを放送後にスタジオに伝えるのもすごく楽しかったです。
リスナーと、スタジオの方々との懸け橋でもあったんですね。
「こないだの○○さんのこういう話をきいて、すごい感動している人がいたんです」、そういうつなぐ橋渡しの役目ですね。ランラン号は、ラジオって人に生きる希望を与えてるんだっていうことを目の前で見て、目の前の方からお聞きして、実感できるという最高の特権がありました。ランラン号ならではの経験でしたね。
この業界で10 年経ちましたが、今後の展望を教えてください。
周りにいる魅力的な喋り手さんを見ていると、自ずと夢は膨らみます。あんなことをしてみたい、これをもっと磨きたい、新しく出来るようになりたい事や確立したい立ち位置は、やっぱりあります。一時期は、この先のルートを焦りながら考えましたが、ゴールやルートを定める事は今はしていません。その時の最高を目指して邁進するのみ、です。
もっと広い意味でいうと、人生に好きなコト、モノ、ヒトをどんどん増やしていきたいです。いつも思うのですが、好きなものが多ければ多いほど、人生は楽しいですよね。たくさん小さな感動ができますよね。あれはイヤとか、そういうのは嫌いっていうものがなければ、自分の人としての幅と受け入れ容量が格段に広がります。日常生活の中で、美味しいものでも照明の色味でも、なんでもいいんです、何か心ときめくものに出会った時は「ラッキー!また好きなものが増えた」と思います。
では、在校生のみなさんにメッセージをお願いいたします。
数年前、卒業以来 10 年以上ぶりに藤時代の同級生に再会したのですが、その時にずっと胸につかえていた、当時の自分のダメなところなんかを吐露したんですね。「思い返すと、あの頃私、嫌なやつだったでしょう?反省…!」みたいに。そうしたら、みんなポカーンだったんです(笑)。6年間だからこそ得られるものがたくさんありますから、「考えすぎず。よく、考えて」です(笑)。
あと、在校していた時期は違っても、卒業後に出会う藤出身の方々というのはいいものです。一瞬で心が通じるような感覚、最高ですよ。私は1年半前に新しく始まった STV ラジオの番組で、H.N. メディックの院長、遠藤陶子さんに出会ったのですが、当時の校舎の趣きや先生たちの授業内容、たくさんあるミサの話、聖書の福音書を覚えるためにシスターが作った歌…藤っ子にしか通じないような話がわき出て最高に懐かしく楽しいです。そして、「藤マインド」が、脈々と受け継がれているんだということも感じました。職業や年齢を越えて、心の向きのようなものが一緒な気がするんです。それはやっぱり、中高を藤色の教育で過ごしたからだと思います。どうか限りある藤での時間を、好きなことでいっぱいに満たしてくださいね。
撮影場所:STV 札幌テレビ放送会館
インタビュアー・ライター/新山 晃子
カメラ/中村 祐弘
編集/高橋 巧