札幌だからできること 自分だからできること
真摯に芝居に向き合った歌劇団時代。
すべての公演で、自分の持てる力を注ぎます。
29歳の時、「姿樹えり緒」は納得のいく形で退団を決めました。
そして今、「安達彩子」としての展望は…。
退団後のことは考えていたんですか?「1年間は休もう!」とか…。
根がせっかちなものですから、まず資格を取ろうと。辞めてからも、好きなことを仕事にしたいなと思って。調べているうちに着付け師という仕事を知って、それで辞める前から京都に習いに行き始めていたんです。「私なにもできるものがない!」と思って焦ってたんですよね。
堅実ですね。
その後、ヘアメイクの資格も取りました。着付けを依頼される方ってだいたいヘアセットもされるので。着付けと同じく京都の職業訓練校で習いました。
資格取得後は、どこで働いたのですか?
京都を中心に大阪・兵庫・滋賀等、関西圏内です。派遣という形でやっていました。和装も洋装もできるから、ブライダルの現場でお嫁さんの担当等にも入り。ホテルによっては美容担当の人がアテンドも全部するというのを売りにしているところがあって、そうすると介添えもできるようになってしまいまして。
それは、経験でできるようになったんですか?
はい。担当をしない日は列席のお母様方を着付けたりヘアセットをしたりということもありました。成人式や卒業式は美容室に行き、和装で結婚式の前撮りをするスタジオなんかにも出入りしていました。
仕事には困らなかったわけですね。
逆にあちこちの現場に絶えず行っていたので、定期的なお休みもなく、かなりハードでした。
舞台で培った、体力がありそうですが。
でもそれを何年も続けた結果、心身のバランスが崩れてしまったんです。
それで少し前から考えてはいたのですが、札幌に戻ってくることに決めたんです。
高3の時もそうでしたが、体調崩すまで頑張っちゃうんですね。
そうなんです。崩してから気づくんですよね。今は、ブレーキを踏みながら過ごすようになりました。「過信せずに、これだけやったから一日ちゃんと休もう」と。
札幌に帰ってきたとき、冬眠と称して2か月何もしなかったんです。
やっと一息つけたのですね。
少し落ち着いた頃、声楽の先生から声がかかりまして、「時計台のホールでオペラをやるから、ちょっとヘアメイクで入ってくれない?」と。椿姫役の方のヘアメイクと衣装サポートを担当したんですね。そしたらそのあとに「そろそろ歌ったりしたいんじゃない?」と、「ママとこどものためのコンサート」に声をかけていただいたんです。その年は、ママとこどものはじめての音楽会、クリスマスコンサートに続けて出してもらって。札幌で人前に出始めて2年目に入った時に、道立三岸好太郎美術館のミニリサイタル募集を見て、企画をしてちょっと出してみようかなと。
安達さんから発案を。
そうなんです。それで、どうせだったら同級生にピアノを弾いてもらいたくて声をかけたのがピアニストの日小田直美さんです。同じ先生に声楽を習っていたので高校生のころから知ってはいたんですが。
声楽の先生がひとつの軸になって札幌での活動が展開していったのですね。
そうなんです。私の歌は芝居っ気が強いんですが、日小田さんが「北海道にこういう人いないから、あなたはもっと人前に出るべきよ」と。
貴重な人材だと。
「何かやろう。きっとワクワクする企画ができるよ」って。だから三岸好太郎美術館が終わる前からそういった話をしはじめたんですね。
それが、「Fusion of Music」につながったんですね。
私が言いだした企画に思われがちなんですけど、ウエストサイドストーリーも彼女がやりたいと言ったものなんです。バーンスタインの作品なので、ものすごい難解なんですよ。だからピアノ1台では無理だ、となった時に、彼女の妹さんもピアニストなんですが、元々ピアノを向い合わせて引く2台ピアノという演奏形式のものを2人がライフワークにしていまして。「これは一緒にやったらいいんじゃないか」と。それで開催したのが 2 台ピアノ×ヴォーカルのコンサート「Fusion of Music」です。第1部は2台ピアノでクラシックの曲をがっつりと聴かせる。
王道のラフマニノフを。
ものすごく壮大でドラマティックな感じでした。なのに2部はいきなりバーンスタインで、ジャジーな感じになる(笑)。これも芝居要素を加えてまるでミュージカルを観ているような演出にしたらお客さんもただ黙って大人しく聴くんじゃなくて「おっ、何が始まるんだ?」って思うから、そういう作りにしようって。客席の通路をまるで舞台の一部のようにして使いました。
キャッツですね。
そうなんです、まさに。客席から出てくる、歌いながら動き回る…っていう演出でやってみたら、反応が全然違ったんですね。クラシックは敷居が高い、コンサートって難しいもんだ、演者側がいい作品といい演奏すればそれでいいコンサートである、というのはちょっと違うんじゃないかと。そういうコンサートもそれはそれで有りだと思うんですけど、見せる側の工夫がある楽しいコンサートがあってもいいんじゃないか、という企画で立ち上げたんですよ。
面白いですね。
ありがたいことに、1 回目は2週間前に完売してしまって、チケットが買えなかったという方がいらしたので、2回目は会場をちょっと大きくして開催しました。また今後も続けてやろう、と企画しています。
需要があったわけですね。
ピアニスト2人は自分たちでも教えてる人たちなので、「既存のものだけがスタイルじゃない。自分たちですれば色んなことが、世界が広がるし、一緒にいる仲間がいれば、ひとりでできないことでも、色んなことができるようになる」っていうことを子どもたちに示せるいい機会だと。自分には全くなかった意識の部分を開いてもらいました。
第5話に出演いただいた神吉さんも、「ピアノの先生が、ピアノをやっている人が増えれば世界が平和になると信じてピアノをやっている、と教わった」って。
こういうコンサートとか、舞台とか、音楽とか、芸術や芸能全般にそうですけど、こういうことができるって、環境が平和じゃなきゃ絶対にできないので、やっぱりそういう平和な環境のためにも、私たちはやり続けなきゃいけないって思いますね。
前回上演したウエストサイドストーリーも、あの作品は完全に人種差別とか、宗教問題とかがからんで、だからこそ平和賛歌的なメッセージを込めたいという思いがあって。2回目に上演したのはサウンドオブミュージックで、実は最後の方がけっこう政治色強いじゃないですか。
戦争を背景とした…。
そういった色が濃いために、映画とかミュージカルの作品自体、近年になるまで現地では上演されなかったらしいんです。感情を逆なでするという理由で。
だから今回は、そういう部分を出さずに一人の女性の成長物語のような作りにしたんです。明日を信じていく力強さとか、なにが起こっていても常に明日が来ることを信じていれば夜が明けるからというメッセージを込めたくて。若い子たちに、色んな辛いことがあって逃げ出したくなっても、今を乗り越えれば先には絶対にいいことがある、というメッセージが届けばいいなって。
さらに、ピアニストお2人の、「すそ野を広げたい」という思いと。
お互いがお互いのファンを抱えているので、その人たちがそれぞれに興味を持ってもらうというのも目的でした。退団後、関西では肩書きを隠してたんです。その肩書きに頼るのはマナー違反だろうって。なんか、肩書きにまず喰いつかれるっていうのも嫌だったんで。
ごめんなさい、それを利用しようとして…。
いえ今は全然…(笑)。札幌に戻ってきて、舞台活動再開してから、ようやく肩書きに違和感なくなったかな、という感じで。退団から 10 年経ってようやく。
舞台に立っていくにはものすごい助けになる肩書きですし、私の身分証明ですよね。あの経験がなければ、今の私はあり得ない。宝塚に色々なことを教えていただいたから。
今後の展望を教えてください。
昔は先々の事を心配しすぎだったんですけど、今はあんまり急いで考えなくなってるんです。とりあえず、この自分自身の活動を継続していく。あと、子どもたちや、子どもを抱えててコンサート離れしてるお母さんたちへの音楽活動、アプローチをずっと続けていかなくちゃいけないな、と思っていて。色んな形で続けていきたいなと思っています。私、札幌には絶対戻ってきたかったんです。
この、寒くて風の強いまちに…。
関西は体質は合わない……と言いながら 15 年もいましたけど。毎年夏バテして、痩せる痩せる ( 笑 )
自分が経験してきたことを札幌で還元したいですし、正直東京や大阪では私くらいの人は珍しくもなんともないので…。
確かに、東京、大阪だとたくさんいるかもしれないですね。
逆にいうと、札幌だからこそできる活動なので、自分のやってきたことをここで活かすべきだなって。札幌を活気づける何かの要素になったりできればいいな、札幌に恩返しできればいいな、と思ってます。
せっかく色々なホールがあり、それぞれ持ち味があるので、自分たちの企画もそうですけど、色々できるなと思うんです。札幌だからできること。自分だからできること。他の人がやるようなことを私が札幌でやる意味はないと思っているので…この変わった経歴の私が(笑)
音楽的見地からいっても珍しいと指摘され。
たしかにそうでしょうね。「Fusion of Music」は、素舞台でやってるんですけど、大がかりなセットや大勢の出演者じゃなくても世界は作れる、そういう企画があってもいんじゃないかなって思うんですよね。私の表現ってこうなのかなってようやく少しわかりはじめてきました。歌だけ歌おうとするとすごい構えるんですね。それが一気に…ステージングをつけて動きながら芝居しながら歌うと、自然に歌うんですよ。もともと色々とコンプレックスを持ってるので。地味だった自分とか。
それ、もうなくなってますけどね。
歌が苦手だった自分というのも引っかかっていて。その意識がまだ消えてはいないんですよ。でも、苦手だからこそ多分やるんだろうし、芝居を付けて歌う楽しさを覚えちゃった…宝塚の時とはまた違うジャンルがここにできあがっているという面白さもある。まだスタートしたばかりですけど、まだまだ変われること、自分でも成長したりとか変化できるんだという発見も面白くて。「この年でもまだやれるんだ」っていう喜び ( 笑 )
常に新しいことを習得していますね。
やろうと思えば、なんでもとは言わないけど、やれることは多い。無理だ、できないと自分で限定しちゃうのは、よくないのかもしれない。まだ可能性というのは色々あるんだろうなって。札幌に帰ってきて色々と初めて思いました。
経歴の中に「宝塚着付け」というのがありましたが、あれは?
撮影の時に毎年呼ばれて仕事で行ってるんですよ。月刊誌のお正月号で各組トップ娘役さんの振袖のポート等があって、そのヘアセットと着付けをしているんですよ。毎年 11 月、2回ぐらい関西に行ってます。あと写真集とかで、ちょっと変わった着付けとか企画的なものをやるときにも、お声がかかって。
それは、どうして呼ばれるようになったんですか?
実は、着付け師の資格をもうすぐ取ります、という時に、当時月組のトップだった瀬奈じゅんさんが月刊誌の正月号で、着物と袴で写真撮りたいんだけど、「やっぱり自分で着るのと人に着付けてもらうのって違うから手伝ってくれない?」といって呼んで下さったんですよ。その時に、「良かったら使ってあげてね」って月刊誌の編集部にいって下さったんです。
スター、面倒見が違いますね。
そうなんですよ。また発言力もあるので ( 笑 )
瀬奈さんがご自分が退団なされるときに出された記念写真集でも和装を2パターンやりたいから、その時はコーディネートと、着付けもやってくれと言われて。その時撮影が鎌倉でロケだったんですけど、新大阪から新幹線乗って一人で現地へ行きました。他の組でトップになった方とかも毎年ちょっとおもしろい和装で撮りたいなんていう時とかも、着付けやコーディネートで呼んでくださって。そしたら次の年からお正月ポートで娘役さんの振袖の着付けも依頼が来るようになったんです。
やはり、人と人との関係ですね。
宝塚の仕事だけが、関西離れる時の心残りで。だから、もう、交通費出してくれれば来ますから、と散々言って帰ってきたら、ちゃんと次の年も呼んでくれて(笑)。ありがとうございます、という感じです。
つながっている縁が、まだあるわけですね。
色んな方のおかげで今ここにいるわけですから。本当に人に恵まれた人生だと思っています。藤に入ってよかったなってずっと言ってます。私は藤が合っていたと思うし。宝塚に行ってから本当に何度も言われました。「いい学校に行ってらしたんですね」って。
本州の方にも知っていただいてるなんて、嬉しいです。
今でも思っています。私は、藤で良かった。
藤を考えている小学生の保護者に対して。
すべてにおいて合う合わないがあると思うんですが、学校環境ってすごく大切だと思うんです。長い時間を過ごすのは、やっぱり家と学校です。藤の伸び伸びした環境は、私はものすごく利点だったと思っています。6年一貫、先生たちのどっしりとした構え(笑)。外で言われてきたイメージよりもむしろ自由さというか考え方の広さを持っている学校です。
撮影場所:藤学園
インタビュアー・ライター/新山 晃子
カメラ/中村 祐弘
編集/松永 大輔